学校の「暴力=体罰」問題の本丸

昨日の日記一般社会なら恨まれて後ろから刺されても不思議じゃないレベル - maukitiの日記の続き。というか実は省エネの為に分割してました。


そもそも論でいけば、現代における教師の皆さんに求められる役割は二種類あるわけです。つまり『教育』と『管理』と。
一般に『教育』として見た場合に「体罰=暴力」は有効じゃないだろうというのには、もちろん同意するしかないわけであります。殴って賢くなるなら皆そうればいいんですよ。殴られた数だけ賢くなる。んなアホな。だから「教育に暴力は必要ない」というお言葉には賛成するしかない。
しかし一方でその集団の『管理』として見た場合に「体罰=暴力」はそこそこ有効な手段であるわけです。教育へのポジティブな効果はなくても、少なくとも一部のバカを身も蓋もなく大人しくさせることはできる。それは世界中の統治機構がその暴力装置潜在的に備えている点からも解るように、まぁ当たり前の話であります。もちろん、だからといってそれを濫用していいわけでは決してありませんが。
つまり『教育』だけならば話は簡単なんですよ。大抵の学習塾や、あるいはセミナー・勉強会など、そこでは普通そんな「体罰=暴力」なんて問題は出てこない。だってそこでは『教育』すればいいだけだから。
――ところがやっぱり学校はそれだけではない。生活の場としての学校。
学校における暴力=体罰を否定する事はもちろん素晴らしき理念であり、正義であることは言うまでもありません。ではそれナシで、一体どうやって最低限の集団生活の秩序を維持すればいいのか? 


かくして学校の先生たちには『教育』以外にもう一つ重要な、そして大変難しい問題を抱えているわけです。現代ではむしろこちらの仕事量の方が本丸となってすらいる。
典型的なブラック労働な人たち - maukitiの日記
特に公立学校では、彼らは暴力だけでなく(停学や退学といった)処罰権限などのような、それまであったハードパワーまでも封印された状態でその難題に立ち向かわなくてはならなくなっているのです。「教師と生徒」や「生徒と生徒」の関係性について、そんな両手を封じられたとも言うべき状態で、如何にして集団の危機『管理』すればいいのか?
そこでも体罰=暴力ナシで生徒たちを管理できればそれがベストではあります。理想論としては確かにその通りなのです。でも、それってとーっても難しいことですよね。暴力や権威などに頼らずに、人望やカリスマあるいは統率力などのみで集団の秩序を維持しなければならない。優秀な統率力をもった人であればそれは可能でしょう、それこそカリスマ的な何かがあれば。まぁそれを大して給料も高くないただの公務員に望むのは酷な話だと思わずにはいられませんが。
そんな「ごく普通の」教師たちをただの無能と断じるにはあまりにもハードルが高すぎるんじゃないのかと。
だからやっぱりその給料と仕事量のバランスは、上記日記でも書いたように、どう見てもブラック企業のそれに限りなく近いように思えます。少なくとも僕には絶対無理です。学級崩壊一直線です。


ただでさえ日々の授業に追われる彼ら教師は、一体どのようにすれば集団の『秩序』を維持すればいいのか?
ていうかその秩序を教えるのも教育の一環なのか? でも秩序ナシに教育できるのか? 秩序の為の教育なのか? 教育の為の秩序なのか? まぁ多分にトートロジーなお話ではありますよね。
私たちの考える『教育』ってそもそもなぁに?




さて置き、皮肉な話ではありますけども、多くの親達によって望まれたはずの所謂「少人数クラス編成」って、実は同時により暴力=体罰がもたらす効果はより大きなモノにもなっているんですよね。50人の内の1人を殴るよりも、20人の内の1人を殴る方がずっと容易く影響力を確保できる。それこそかつてヒューム先生が仰っていたように、より強大な独裁者であればあるほどむしろ自らの腕力で届かない人間までも影響下におけるようなカリスマ性が必要となるわけで。つまり逆説的に、より小さな集団であればあるほどその「暴力による支配」という効率は強くなっていく。
体罰反対という価値観は強くなっていく一方だと言うのに、しかしこうした所謂「暴力教師」が減らないのはこうした要因もあったりするんじゃないかと思います。実はより「安易」な方法となっている体罰というやり方。両手を縛られ追い詰められた彼らが、誘惑に負けたり、あるいはふとした瞬間に、そうした安易な方法に走ってしまうのもそりゃ無理もないよなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?