『大図書館の羊飼い』クリアした

ふと過去日記を見返してみたらADVなエロゲが二年ぶりで驚き。折角なので感想日記。ちなみに結局その前回もオーガストさん『穢翼のユースティア』だったし、実はそこまで好きだったのかとまさかの我が身を振り返りまた驚き。いやまぁ多分にネトゲのLv上げの同時進行なのでタイミングの問題なんですけど。


ということでDQ10のレベル上げしながらクリアしました。
中身としては前作からの伝統回帰というかなんというか。オーガストさんちいつものエログロ無しのほんわかSF(少し不思議)人間賛歌。今回も一見はただの青春ラブコメっぽいですけども、しかし物語や設定・伏線の奥行きもしっかりあって、かなりよく出来ていたんじゃないかと思います。さすが時間かけているだけあります。中身についてはネタバレになるので後述。
好きなキャラは「鈴木>小太刀>生徒会s>その他」辺りで。いやぁ鈴木の悩めるピエロ具合がとてもいいですよねぇ。現代人の鑑で大好物であります。
ここ数年来はプレイ間隔が年単位のせいか毎回毎回UIの進化に驚いている気がしますけど今回も同様。でもシナリオスキップだけはもう少しなんとかして欲しかったかなぁと。





以下、かなり致命的なネタバレを含むので注意してくださいの続きを読む。
































ということで以下適当な雑感。ほぼ全編ドラクエやりながらのプレイだったので突っ込みどころがあったら今の内ごめんなさいしておきます。

大図書館の羊飼い』に最も近い人物

多岐川さんの噛ませっぷりがひどい。
まさに負ける為の選挙戦なんてかわいそすぎます。
――でもまぁ考えてみると彼女はシナリオ上「主人公」「羊飼い」続く位の重要なポジションではあるんですよね。有象無象のヒロインたちよりもずっと重要な立ち位置にいる。それは対立関係を作って主人公の最終決断を促すポジションとしてもそうだし、同時にまた、彼女のやろうとしていた「効率化の為の(不要な)人員整理」って描写されない人類の奉仕者たる『羊飼い』のもう一つの役割の暗示でもあったのだろうと思うわけで。
つまり、人間の運命へ干渉できる彼ら『羊飼い』って作中では有能な人間に対して「善き方向」への正の干渉だけが語られていましたけども、当然の疑問として出てくるのが、じゃあもしそんな未来予知(操作)ができる『羊飼い』たちが将来何万何十万何百万人というオーダーで無辜の市民を殺すだろうテロリストや独裁者、を見つけた時それに負の干渉をするべきなのか? というジレンマが出てくるわけです。それはもし人類の奉仕という理想を考えるならば、絶対に避けては通れない点であります。もし幸福の総量を増やそうとするならば、不幸の総量を減らす事だって同じくらい重要であるはずなのです。
いつものオーガストさんらしく、そんなダークサイドな面はスルーされていますけども。
その点を考えると多岐川さんが掲げていた「学園の人員整理」というのは、そんな『羊飼い』の負の側面をマイルドに象徴させているのでしょう。そして彼女は物語上で劇的に敗北する。だってそんなものを認めるわけにはいかないから。作中でつぐみ大先生が「文化祭の出し物の認可を生徒会がやっていることの矛盾*1」について看破していたように、もしそれを認めるとすれば「ならば誰がその生徒会(羊飼い)の資格を問うのか?」と。
――かくしてJSミル先生の自由論のような地平へと至るしかなくなってしまう。
だからこそ、本質的に『羊飼い』というのは小太刀ルートで散々言及されているように、善人だからこそ「導く」のではなく「寄り添う」ことしかできないのです。それこそもし人類自身が破滅を望むのならば、それに寄り添うことしかできない。彼らは「人類の奉仕」と謳いながらもただ見守るだけ。結局は最も「害のない形」で徹頭徹尾――現実世界で叶わなかった救済をしてやろうと――自己満足な行為をしているに過ぎないのです。
そうして見ると作中の登場人物の中では主人公や小太刀なんかよりも、実はつぐみ大先生こそが最も本来の『羊飼い』らしいわけですけども、しかし彼女は「お前ほど、俺は世界に絶望しちゃいない!*2」のでした。だからそんな風にアンタッチャブルな立ち位置から歪んだ「人類の奉仕」な所にまで至らない。その上で、既に彼女は『羊飼い』の理想像に到達している。それどころからむしろ更に一歩先に行っていて、羊飼いとして契約をしないまま、人間を辞めないまま『羊飼い』のあるべきポジションに到達している。
まさに現実における『大図書館の羊飼い』そのものなんですよね。つぐみ大先生さすがです。


かくして、そんなつぐみ大先生の筆頭使徒となった主人公は『羊飼い』への興味を失うことになる。それは彼女に救われたという理由であると同時に、だって彼女こそが現実としての『羊飼い』の理想そのものだったのだから。既にそれ以上のモノを見せられその一員となっていた主人公が、そちらに魅力を感じる理由なんてありませんよね。それこそ小太刀のように「人間やめたい」という理由が先にこない限り。
だからこそそんなつぐみ大先生のその姿は、現実にはかつて不幸で無力な人間に過ぎなかった『羊飼い』たちが望んでも得られなかった理想を天然のまま体現していて、より哀れで悲しい存在として『羊飼い』たちを強調するのです。
人を救いたくて、でも人間をやめたくて、挙句には人間(=善人)であることも完全にはやめられない、心底悲しい人たち。お父さんたちが哀れで悲しいほど、つぐみ大先生は一層眩しく輝く。
日本でも最も有能な才能が集まるとされるその学園において――更には図書部において、傍目には明らかに「才能の無い」つぐみ大先生でありながら、しかしまったく違う次元でタレントを持っていたのです。そんな才子才媛たちが集まる学園においても尚、圧倒的なカリスマを持つ彼女。将来がおそろしい子、という意味では彼女がナンバーワンであります。




さて置き、これはまぁやっぱり伝統的な政治哲学の議論の一つでもあるわけで。『パターナリズム』などを代表とする「内向的」「外向的」アプローチの是非について。SFの有名どころでは『幼年期の終わり』に出てくる上位存在や、あるいは現状の人間自身を上位存在とした場合の野生動物などに対する、「導く」のか「寄り添う」のか、という議論。
その意味で、『羊飼い』たちは結局完全に人間を辞められない限り――そして善人であろうとしている限り、絶対に「導く」というアプローチには到達できないのだろうなぁと。逆説的に、もし「導く」ようになるとすれば、それは彼らがまったく人間でなくなった時でしょう。
彼らは不老不死らしいので、今後数千年単位で時間経過すればもしかしたら人間以上の存在に昇華できるのかもしれません。まぁ多分に人類滅亡とのチキンレースな気はしますけど。

*1:この点を掘り下げようとすると、「政府機能」の大きさについて、というものすごく真っ当な政治議論になってしまいますが、本題とはズレるので割愛

*2:by『逆シャア』のアムロさん