「国家の外交政策」と「国民の自由な声」が交差するとき、物語は始まる

「希望は戦争」という国民の誕生以来続く伝統的風景。


政府による『平和父権主義』の是非 - maukitiの日記
先日の日記『平和父権主義(造語)』について、gryphon先生から頂いたコメントが面白かったのでもう少し考えて見た日記。

外交官が昔は「国を超えた外交一族」としてすべてを飲み込んで常識の刃範囲で駆け引き、交渉をしていた(外交官だけが非常に贅沢で、特殊な文化や儀礼を持つのはその「国際外交一族」の証明のためでもあるという)。しかし民主主義国家が生まれて以降、民主国家の外交官がそういう交渉経過と意思決定をすべて「民衆」なぞに公開、決済を受ける必要が出てきて古典外交が崩壊した・・・という話も聞きますね。
もちろん「古典外交の崩壊」はイコールで「民主主義の勝利」と結べる。

まさにその頂点にあるのが19世紀前半にあった、ウィーン体制=ヨーロッパの平和、であるわけですよね。一般の国民の感情などまったく無視した上で安定していた「権力者の、権力者による、権力者のための平和*1」であります。ヨーロッパ外交の黄金時代。
ウェストファリア条約から始まったとされる「外交官たち」によるヨーロッパ国際関係は、時代を経ることで洗練されていき、ついに『ウィーン体制』でその絶頂期を迎えるのです。外交手続きは成文化され、大使館や領事館・外交特権・首脳会議・条約や協定など駆使することで国際的な危機を抑制する、まさに現代まで続く『外交』の基本構造をその頃に完成させていた。
抑制され均衡された平和状態。確かに彼らは歴史上稀に見る平和な時代を確かに実現していたのです。
まぁもちろんそこに至った要因が全て善意や平和主義から生まれたわけでは決してなくて、破滅的な戦争は、結局そうしたエリート外交官や権力者たち自身を破滅させることに彼らは気付いてもいたからなんですよね。その平和創出のもう一つの面は、その時代にあったもう一つの大きなトレンド――自由主義国民主義の登場に彼らが怯えていたことの証でもあるのです。紛争の長期化してしまうことで、既存エリートであった貴族や富豪たちが持つ既得権益を失ってしまうことこそを恐れていた。
だからこそ、彼らは破滅的な戦争が起きることをなんとか抑制しようと懸命に努力していたのです。そしてそれが結実したのがあの『ウィーン体制』でありました。


――結果として、その懸念はかなりの面で正しかった。
もちろんよく言われているようにその平和の崩壊全ての原因が『1848年革命』を契機とするナショナリズムというわけでもありません。軍事技術の革新的な進歩による軍拡競争や、そしてヨーロッパ『外』たる大国(まずアメリカが、そして日本が)の登場によっても、そのバランスは維持できなくなっていったのです。
しかしそれでも、やはり最も大きな理由の一つはやはりそうした「国民としての目覚め」であることは間違いないでしょう。
彼らエリート外交官たちは、徐々に国内政治の影響を無視できなくなっていき、そしてついには乗っ取られてしまうようになる。それはまぁ国民国家であれば当然の帰結であるとは言えます。国民の感情を無視して好き勝手にできなくなってしまった彼ら。
特に致命的影響をもたらしたのが、ヨーロッパの平和の中心にあった独仏関係でした。普仏戦争でプロセインがアルザス=ロレーヌをフランスから獲得すると、フランスの国民感情はそれに敏感に反応しました。国家は国民であり、そしてその国家の領土が奪われると言うことは国民が切断されることに等しい。最早領土のやり取りは「権力者たちのゲーム」というだけでは済まなくなってしまったことを証明したのです。国民は争いの当事者として目覚め、故にその痛みを無視できなくなってしまった。
そして独仏関係はこれまでとは違った次元で悪化していったのです。最早外交官たちの努力だけでは危機を抑止できない。古典外交のおわり。そしてあの第一次大戦という劇的な結末へ。




この辺の経緯と、昨今の日中間にある尖閣諸島の問題を比較すると、結構面白いお話だと思うんですよね。見事に多くの日本人を目覚めさせることになった領土問題。それはただの右傾化というよりはむしろ、当事者として声を上げるようになった、のかなぁと。
私たち日本人もまた、米軍統治の戦後から冷戦が終わるまでの数十年間、日本には事実上『外交政策』に関する選択肢の余地なんてありはしなかったわけで。より大きな流れに流されていくだけ。しかし冷戦が終わることで私たちはついに、ある種の自由を手に入れていると思うんですよね。確かにそれは進歩と言っていいでしょう。政府にまかせっきりするのではなく、国民の声を外交政策に反映させよう、と。実際それは右派のような人たちだけでなく、左派の人たちの希望でもあったはずなのです。
――ところがまぁその国民感情の反映は、歴史が教えてくれているように、必ずしも、プラスの結果を招くわけではない。
現在まさに日中両国で起きているように、少なくない人たちにとって、やはり「領土の喪失」という事態は「国民の切断」という恐怖に直結するのです。そしてその恐怖の中で抑制された振る舞いや妥協をするのは簡単ではない。
「恐怖に怯える人びと」を説得することがどれだけ難しいか、『3・11』を経験した私たちにはイヤというほど解っている。


ならば当事者ではない人たちに任せるべきなのか? というとやっぱり今更それも賛成されないでしょう。だって私たち国民はその当事者なのだから。戦争や外交を、将軍や政治家だけに任せておくわけにはいかない。
しかし一方で「希望は戦争」なんてことを言うのは現代日本に限った話ではなくて、むしろ昔から変わらない『国民』の率直な吐露でもある。逆説的に、むしろいつだって既得権益層こそが戦争が起きることを心底恐れている。だからいつの時代も大きな傾向として、上層ほどコスモポリタンな方向に走る一方で、下層ではナショナリズムへ傾倒するのです。
いやぁ一体どうすればいいんでしょうね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?