その『戦争』は誰のもの?
日中衝突は第一次大戦前夜・・・ではない! : 地政学を英国で学んだ
ということで「第一次大戦前では、ない」というお話。その経済状況の類似性についてはともかくとしても、軍事・安全保障の面からすれば、それこそ第三次世界大戦なんて起きる気配は、まぁまだありませんよね。
●しかし現在の東アジアの安全保障環境において気になること(一九一四年の時とはかなり異なるが)がある。それは(エアシーバトル構想に代表されるような)「空軍&海軍力だけで決戦が行われるから本土の領土や人間には関係ない」という考え方だ。
●すべてのアジアの国々は相手国の本土を攻撃することにはかなり慎重であるが、遠くの島の近くの海上や空中での戦いは、エスカレートするリスクをもつことなく軍事力を見せつけることができるチャンスであると考えているかもしれないのだ。
日中衝突は第一次大戦前夜・・・ではない! : 地政学を英国で学んだ
個人的に面白いのはこの部分かなぁと。自分たちは戦争に際しての「部外者」と考えていることこそが危機を招くことになるかもしれないと。それってまるで時間が逆回転しているようで。
「国家の外交政策」と「国民の自由な声」が交差するとき、物語は始まる - maukitiの日記
先日の日記でも触れたお話ではありますが、国民国家の誕生によってそれまで軍人(貴族)のモノだった『戦争』が、国民が国民として目覚めることで国家の成員全員に関わる問題として捉えられるようになってしまった。そしてその帰結として『総力戦』という概念が誕生し以下略。
翻って現在、『総力戦』という概念はほぼ完全に陳腐化し、志願制が殆どとなることで再び職業軍人と一般市民は隔絶しつつある。あの悲惨な(総力)戦争は避けなければならない。まぁ確かにまったく正しいお話ではあるんですが、あまりにそれを前面に出しすぎると、「じゃあ総力戦じゃなければ――限定戦争ならばいいのか?」というお話にも繋がってしまいかねないわけで。
幸運なのか不幸なのか、再び戦争の当事者ではなくなりつつある私たち。その結果が上記のような危機を招いているのだとすると、まぁ皮肉なお話ではありますよね。
さて置き、その意味では「第一次大戦前夜」よりも現在の構図として近いのは、それまで均衡状態が保たれていた平和=ウィーン体制が19世紀後半から徐々に崩壊しつつあった「19世紀後半の前夜」辺りが現在のそれと比較して近いところにあるんじゃないかと思ったりします。前半と後半の隙間の時代。もしかしたらこの後も似たような地平に至ってしまうかもしれないけれども、しかし今はまだそこまでではない。
- 新しい大国=プレイヤーたちの登場。
- 領土問題を端に発しての国民的イデオロギーの盛り上がり
- その国内政治の要請に足を引っ張られる外交官や政治家たち。
- 軍事技術進歩
- かつてはそのせいで軍拡競争が激化し、現在では無人機など(及び軍人の専門化)によってより国民の「部外者」感を醸成しつつある。
- 超大国の仲介役の失敗
- 本来であればその機能を果たすはずの超大国が国内政治の混乱によってその役割が損なわれる。
ということで次にありそうなのは、むしろあのクリミア戦争のような限定的で、そして「勝者の居ない」ぐだぐだな展開なんじゃないかなぁと。まぁどう見てもそこに一番近いのが日中間というのが笑えない話なんですけども。