『人民の敵』だったユダヤ人たち

昨日書いた人種差別(反ユダヤ主義)のお話がさすがに投げっぱなしだなーと思ったので補遺日記。




『諸国民の春』にあって、『アラブの春』になかったもの - maukitiの日記
ということで、ヨーロッパで19世紀から着々と民主主義が進みその後の混乱によって、その諸勢力の致命的な分裂を防ぐ為の接着剤「生贄」となってしまったユダヤ人たち。いやぁ救えないお話ですよね。以下、そんな『諸国民の春』後に如何にして彼らは生贄となってしまったのか、なお話。


もちろんそれ以前から、ユダヤ人たちはキリスト教との関係から迫害される対象にありました。ヨーロッパでは最も身近な『異邦人』として、中世以降ほとんど常に、彼らは教会や君主たちの気まぐれによって迫害され続けてきたのです。その空気が徐々に変化し始めるのが18世紀啓蒙君主たちの登場であり、同時にまたキリスト教の政治的影響力が薄れることで、彼らの迫害や排斥は相対的に見て徐々にマシなものとなっていくのです。
そしてついに、あのフランス革命を契機とする根本的革新『法の下の平等』という概念が広まることで、その影響を受けた諸国家のユダヤ人たちにも同様に恩恵をもたらしたのです。
その変化は迫害「する側」の意識だけでなく、「される側」だったユダヤ人たちの意識も変化させます。従来『ヨーロッパ』とは分断されていたユダヤ人たち(特に富裕層を中心に)自身の意識もまた「われわれもその一員である」=ヨーロッパ化という方向へ変化させる機運を生み出しました。元々(その歴史から)内部婚を重視する内向的だったコミュニティにありながら、それこそユダヤ人コミュニティの内部から「あまりにも融合し過ぎて本来の『ユダヤ』という存在が消え去ってしまうのではないか」と、懸念が生まれる程度には。
かくしてユダヤ人たちは一斉に、そうした意識の下、変化がより進んでいたヨーロッパの西(及びアメリカ)を目指す大移動が始まるのです。まさにその時代――19世紀後半から20世紀の初頭までの時代は、彼らの黄金期といっても過言ではないでしょう。ケインズ先生が言うところの「なんという素晴らしいエピソードであったことか」という時代を、政治と経済の大変化を、グローバル化と民主主義を、謳歌していたユダヤ人たち。ちなみにその時代、世界で最もユダヤ人と親密な関係を築けていたのはあのドイツだったりしました。


――ところが、こうしたユダヤ人の解放こそが、その後の揺り戻しを呼び覚ましてしまうことになります。
それは一気に爆発するのではなく、状況は徐々に悪化していきました。ユダヤ人の存在が大きくなればなるほど、従来住民との摩擦は否応無く悪化していく。人びとは『法の下の平等』以降徐々に存在感を強めるユダヤ人を無批判に歓迎していたわけではなかったのです。まぁその展開は悲しいことに、私たちにも理解の範疇ではありますよね。
更にはヨーロッパの『帝国』が世界中に広まることで、現地住民との接触が増える中で『人種差別』という空気も徐々に高まっていく時代。ユダヤ人憎悪はそうした人種差別と合流することで、更に一般化していきます。伝統的な異邦人への憎悪と、そして「科学的人種差別*1」としての劣った人種・血統としての憎悪。
古い伝統と新しい(擬似)科学が手を結ぶことで、更にその感情は強まっていったのです。


こうして解りやすいユダヤ人憎悪は、社会における「共通の敵」としての存在価値が高まっていきました。それでも、社会的分裂が顕在化しない限りは、彼らの出番はやってきませんでした。ところがまだ安定した民主主義体制が完成しておらず移行期にあった国々は、ほとんどどこでも潜在的に紛争のタネを抱えていたのです。新しい民主主義体制を望む勢力と、そして王や貴族や軍人などの旧強権体制を維持したい勢力。名実共に一つの国家――国民国家への移行期による混乱。
――そして、いざ社会的分裂が顕在化したとき「反ユダヤ主義」というのはとても都合の良い接着剤として機能しました。故に政治活動において大きな役割を果たしていたのです。敵対する両者が手を結べて、そして国民の支持も得やすい、とても便利な題目として。典型的な『生贄』となってしまった彼ら。皮肉にも世論が国家政策にまで影響を与えるようになった事で、逆にその憎悪は国家の「共通の敵」として利用されるようになっていったのです。


こうした構図はなにも当時の民主主義体制下でだけ起きたことではなくて、ロシア革命でも、第一次大戦後に生まれた中欧東欧の独立国家の誕生に際しても同じことでした。皇帝が廃された後、国家の独立の後、結果的に諸勢力が纏まる為の「新しい敵」としてその迫害は加速したのです。更に救えないのは、第一次大戦の敗戦によって致命的な社会不安に襲われたドイツでもお互いに助け合うのではなく、むしろその鬱憤はユダヤ人へと矛先が向かうことになったりもしました。
かつての権力者の気まぐれというトップダウンな影響ではなく、国民たちのボトムアップな影響によって、国民感情の「総意」として迫害されるユダヤ人たち。あの時中欧や東欧で吹き荒れたポログムは、将来の民族浄化のメルクマールでもあったのでしょう。
結果としてこのような「同化の失敗」という意識は、ユダヤ人たちのシオニズム運動を再燃させる切欠ともなりました。元々そこまで支持の集まらなかったその運動でしたが、「ヨーロッパの一員と認められないのならば」「存在さえ認められないのならば」と、彼らはその「ユダヤ人自身の国」への待望は徐々に強まっていくのです。



補遺の補遺

現在のイスラエルに関わる諸問題を扱う際の国際社会=欧米社会の対応の背景には、やはりこうしたヨーロッパにあった歴史的な「反ユダヤ主義」と、そして守るべき「反人種差別」の相克があったりするのだろうなぁと思ったりします。だからこそ、彼らのその対応は微妙に煮え切らない中途半端なものになってしまう。イスラエルが好き放題していることについて、よく陰謀論的に「ユダヤが世界を支配しているからだ!」と仰る方も一部いらっしゃいますけども、むしろこうした歴史的経緯の方がやっぱり大きいのだろうなぁと。
現実にこうした迫害の歴史があり、それでも現実に今尚嫌悪感もあり、かといって現在のイスラエルのやり方には非難の余地が当然ある。直視することも目を背けることもできない彼ら。『原罪』と言ってしまっては言い過ぎかもしれませんが。
そう、「お前は反ユダヤ主義だ!」と罵ればね。 - maukitiの日記
いやぁ端から見ると愉快なお話ではありますよね。


さて置き、愉快な歴史の繰り返しとなりそうなのは、現在の『アラブの春』でも再びユダヤイスラエルが「人民の敵」という所に落ち着く可能性があるという点なんですよね。実際、その解答は彼ら現状の分断――リベラルな民主主義勢力と宗教勢力のどちらをも満足させてくれる解答であるだろうし。
まさかこんな所まで歴史を繰り返さなくてもよかったのにね。
そして、もし、『アラブの春』の国々がそうした行動に走ったとき、一体ヨーロッパの人たちはそれをどんな顔で眺めることになるのか。
不謹慎ではありますが、やっぱりくすっとしてしまうお話だよなぁと。

*1:「社会ダーウィン主義」や「人種衛生学」など