『手間』の差こそが世界を変える、かもしれない

何故にと問う。故にと答える。だが、人が言葉を得てより以来、問いに見合う答えなどないのだ。


CNN.co.jp : 米の15歳少女自殺、レイプ画像がネットで拡散 少年3人逮捕
うわー救えないお話。「局部を含めた少女の体にはいたずら書きのようなものも残っていたという」やばい、一体どこのエロマンガだという感じであります。そしてそれを友人に自慢し挙句ネットにうp。
USJ:故意に迷惑行為…神戸大生、ネット投稿で発覚− 毎日jp(毎日新聞)
そしてその一方で、日本ではUSJで迷惑行為をアップしていた。日本は平和だなぁ。


レベルの大小はともかくとして、なんというかどちらも同じ愚行でありますが、しかしこうして簡単にインターネットにまで乗せてしてしまう愚行という点については万国共通なのだなぁと生暖かい気持ちに。結構みんな同じ。
「友達に自慢する」ここまでは良いんですよ。なぜその次のステップが「ネットにうp」へと直結してしまうのか。
僕を含め大多数の人にとっては、そこには途方も無い隔絶があるはずなのに。友達に自慢するまでが俺たちのやり方。まぁやっぱり百歩譲ってそれはいい。なぜ更に先へ行く。「家に帰るまでが遠足」と教えられてきたはずが、「家に帰ってネットにうpするまでが遠足」という所まで。


さて置き、『お手軽さ』という点で見れば確かにそれは隣同士ではあるんですよね。友達に自慢するのも、ネットにアップするのも『手間』としては大して違いは無い。いやむしろ後者の方が簡単でさえあるかもしれない。指先一つでアップさー。
技術進歩の果てにあったこの世界。「友達に自慢する」から「ネットにうpする」への恐るべき跳躍力。
バカな子供たち、と言ってしまっては身も蓋もありませんけども、しかし本来の意味よりもそんな『手間』の差こそが、私たちの常識――世界観を変える引き金になってしまうのかなぁとも思ったりします。某『ドリフターズ』じゃありませんけども、銃の誕生が「殺す事」と「殺意」と「罪悪感」の簡便化に繋がったように。


個人情報やプライバシーあるいは監視社会など、これまでとは違った捉え方をする人たちの誕生、という視点で捉えるべきお話。なのかもしれない。