『文芸共和国』から『啓蒙思想』へ

なんとなくノリで昨日の続き。


近代科学革命の孵化器となった『文芸共和国』 - maukitiの日記
さて、『人文主義』をルーツに持つ『文芸共和国』にあった共通の価値観――知識層たちを国境や宗派を超えて繋いでいた平等主義・理性主義は、その後ピエール・ベール*1によって凝縮し明確化され「人間すべて」にまで敷衍する理論として『啓蒙思想』へと繋がることになります。こうして知的エリートたちにとっては、その思想は(『啓蒙思想』として生まれる前から)世界が当然あるべく姿として、定着していきます。
しかしそれはやはり知識エリート層のみを中心に通用していた論理であり、元々あまり関係のよくなかった権力者=政治層=政治エリート層には届かないものでありました。
――ここで再びヨーロッパの永続的な戦争状況が役割を果たします。
つまり、科学革命にあるように(ついでにマキャベリズムのような「権力正当化」の為の政治哲学も含め)その『知識』を国家に従属させておくことは、国家利益と直結することに権力者たちは気付いたのです。かくしてその知識を独占しようと、17世紀後半からヨーロッパ各国では国家主導による『科学アカデミー』が次々と創設されていきます。
しかしこの国家による知識層の取り込みは、思わぬ副次効果をあげる事になります。『宮廷文化』と『文芸共和国』が国家の元に並立することになるのです。そして両者は親密に交流するようになっていく。
サロンとアカデミー、貴族と学者、その邂逅であります。
この両者の出会いによって、元々知識層にのみ広がりを持っていた『啓蒙思想』は政治エリート層にまで広く受け入れられる大きな流れとなるのです。また同時にこうした平等主義や友愛精神の広がりは、ヨーロッパ全土という規模で『フリーメイソン』を流行させます。人間は国家や宗教の違いは私的なことに過ぎず、本質的には全て平等であるのだ、と。
ちなみに『啓蒙思想』にしろ『フリーメイソン』にしろ、進歩主義的であると同時に回帰主義的であるのは、そもそもその学者(古典研究に端を発する)も貴族(伝統と作法を神聖視する)も、古典を愛する人びとであったからなんですよね。進歩を望みながら、しかし過去の愛着を忘れらない人びと。


さて置き、こうしたコスモポリタンで平等主義で非宗教的な啓蒙主義文化は、当然の如く既存の教会勢力(カトリックだろうがプロテスタント各派だろうが)から反発を受けることになります。
そしてもう一つ、このような知識層と政治層の両エリートたちによる――「啓蒙」という名が示すように――『エリート主義』は、当然のごとく都市民衆や農民たちからはほとんど理解されないものでもありました。彼らにとっては当然「平等な世界」など幻想に過ぎず、故に民族・地方・伝統・キリスト教こそが彼らの世界の全てだったのです。
このエリートと民衆の致命的な乖離は、あの『フランス革命』とその後の革命戦争で決定的に明らかになってしまいます。
まさにこの学問と政治権力が手を携えた「両エリートたちによる平等主義の押し付け」が結果として、民族としての、国民国家としての、民衆たちを目覚めさせることになるのです。




あともう一回くらい書きたい。