多文化主義1.0の限界。求む2.0。
スウェーデン暴動の根底にあるもの(上) 移民統合政策は失敗したのか?~北欧・福祉社会の光と影(13)(1/5) | JBpress(日本ビジネスプレス)
スウェーデン暴動の根底にあるもの(下) 「我々」と「彼ら」の間の深い溝~北欧・福祉社会の光と影(14)(1/6) | JBpress(日本ビジネスプレス)
ということで色々と物議を醸したスウェーデンさんちのお話。何も昨日今日いきなり起こった事態というわけでもなくて、むしろ元々水面下ではあったそれがついに臨界点を迎えたのだ、という構図なのでしょう。北欧型多文化主義の限界。「手厚い社会保障」があればそうした問題をやり過ごせるのかというと、第一世代はともかく――それこそ移民についての研究でも昔から指摘されていたように――しかし第二世代以降の移民たちにはほとんど効果が無いことが明らかになりつつある。
まぁ当然の帰結といえばその通りなんですよね。一昨日の日記でも少し触れましたが、つまり彼ら第一世代は文字通り『移民』であるわけなので、少しばかりの(無償の施しによる)屈辱や差別にだって耐えられる。だって出身国よりもずっとマシな暮らしができるから。
――しかしその子供や孫たちにとっては決してそうではない。
彼らは完全にその生まれも育ちもその移民先の国民であるわけです。それなのに彼らは現地住民と明確に差別されている。ここで更に問題を複雑にしているのが、手厚い社会保障が「無償の施し」という形態を採ってしまう点にあるわけです。そんな「無償の施し」を受けている人びとは、当然社会に対して歪んだ形で鬱屈を募らせてしまうことになる。
別にそれが単純に悪いというわけではないんです。むしろ、逆説的に見れば大多数の人間が本能的に持つ「社会の役に立ちたい」という感情と裏面ですらある。社会的動物たる私たちは社会の構成員として、それこそ本能的に「社会で役に立ちたい」と思っているからこそ、そんな施しに複雑な感情を抱いてしまう。
それこそ健康で若い人間がそうした特別扱いの立場に置かれ続けることは、社会から「お荷物だ」という無言の宣告に限りなく等しいわけだから。障害やお年寄りなどハンデを背負う人たちにそうするのは当然です、しかしそうではない人にまでそれをやれば、当然その人のプライドは致命的に傷つくことになる。
そして上記リンク先にもあるように、そんな負の感情は無償の施しを「受け取る側」だけでなく、「与える側」にも当然影響する。だから無償の施しというのは実はとても扱いの難しい政策なんですよね。
スウェーデン人は、差別を徹底して嫌う立派な人たちだ。そしてそれが、彼ら自身が心の中で作り上げ、保とうとしている自己イメージだ。しかしさらにその根底では、高い税金を払い移民や難民への生活費を負担しているのは自分たちでもあると考え、イライラしてもいる。
具体的には、朝早くに出勤し、仕事帰りにスーパーで大量の冷凍食品を買って大急ぎで帰宅する人たちは、うちの中に座って自国の放送局のテレビを見ているだけで、スウェーデン語を話そうとせず、仕事もなく、福祉の援助だけで暮らして、来月はどうやって行政からカネを取るか・・・ ということしか考えていないように見える人たちにイライラしている。
スウェーデン暴動の根底にあるもの(下) 「我々」と「彼ら」の間の深い溝~北欧・福祉社会の光と影(14)(1/6) | JBpress(日本ビジネスプレス)
その手厚い社会保障は、ただ払う側の負担というだけでなく、貰う側にも長期的にはコストを強いることになっている現状。もしかしたらお金なんて渡さずにアメリカのように勝手にがんばれという風に放置すれば少しは進むかもしれない、でもそれは当然貧困者が増大することになるので、人道上その社会保障を無くすわけにもいかない。
なのでこの問題は「お金」だけでは決して解決しない問題でしょう。
しかし、だからといって、「お金を渡すこと」以外に何が出来るというのだろうか?
――というと結局彼らにはそれ以上のことが何も出来ないんですよね。本来ならば、お金を渡すのとセットで、家庭の生活スタイルや個人(そして生まれた子供)の生き方について、行政や社会が介入(教育や斡旋)することでその移民たちへの「特別扱い」を緩和させていく必要があるのです。お客様ではなく、地元社会の一員へと。例えば、スウェーデンの言語や生活習慣を学校で教えるとか。
で、そんなことが私たちが讃える素晴らしき『多文化主義』の世界で許されるのかというと、そんなことまったくありえないのでした。行政や社会が個人の「生き方」に介入するなんて、それこそネイティブな地元住民にすることすら難しいわけで。いわんや移民の人たちをや。
かくして彼らは移民たちにお金を出す以外に出来ることなど何もなくなってしまう。嗚呼素晴らしき多文化主義社会。
「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと - maukitiの日記
この辺のスウェーデンさんちの苦悩については以前日記で書いた、多文化主義の矛盾そのものなんですよね。
一見すると私たちはその美しき多文化主義を謳いながら、しかし実際には、一体何処まで文化的自由を擁護して、一体何処まで文化的保守主義を擁護するのか、その合意さえ得られていない。
そうやって現状の多文化主義はその内部に抱える根本的な矛盾をまぁ見て見ぬフリをして棚上げしてきた為に、結果としてお互いにどこまで口を出していいのかさえ解らない人びとだらけになってしまう。そして当然の帰結として、あるべき紳士淑女の態度として、お互いを理解しているという取り澄ました顔をしながらその実「相互無視」を続けるのです。だってどこまでが『自由の擁護』で、どこから先が『干渉』か、そしてそもそも多文化主義は何を何処まで擁護しているのか、合意された明確な答えなんか誰にもわからないんだから実のある対話なんてしようがない。しかし合意するにはやっぱり対話が必要なわけで。ザ・鶏と卵。
「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと - maukitiの日記
もちろん移民を受け入れることは、社会がそれに合わせて変化することが重要です。しかし社会が変らなければならないように、移民の側だって参加する社会に合わせて――全てなんてことは絶対にありませんが――「多少」は生活を変えなければならないわけで。そうでなければずっと部外者のままとなってしまう。統合、というのは両者の歩み寄りであるはずなのに。
ところが私たちは、その「多少」の程度についてまったく合意が得られていない。それどころか議論さえタブーとなってしまっている現状。だから誰もが腫れ物に触るように相互無視を続けるしかない。
私たちは一体どこまで彼らの文化を尊重し、どこまで彼らの生活に介入すればいいのか?
かくしてスウェーデンのように手厚い社会福祉が整った、多文化主義を尊重する社会ほど、社会は分断されたまま固定化することになる。そこでは経済上の必要から生まれる統合のインセンティブさえ働かず、長期に渡り固定化した社会保障によって与える側にも受けとる側にもその差別感情を醸成してしまうことになる。
そしてその鬱屈した感情が臨界点に達した時、
いやぁ一体どうしたらいいんでしょうね?
がんばれスウェーデン。