推進派ではなく無関心層にトドメを刺される反原発

決めたくない政治。


新しい規制基準施行 5原発が申請へ NHKニュース
そういえば原子力発電所の新しい安全基準が今日から始まるそうで。まぁその是非はともかく、面白いアンケートだなぁと思ったのが以下。
7原発周辺で再稼働「容認」34首長…読売調査 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
「容認6%」「条件付き容認42%」「反対10%」「回答保留その他43%」

 原子力発電所の安全審査の受け付けが8日から始まるのを前に、早期申請を予定する電力5社7原発の30キロ圏にある11道府県と61市町村の首長に対し、審査終了後の再稼働を認めるかどうか読売新聞がアンケートを実施したところ、4人が「認める」と答えた。

 「条件付きで認める」とした30人を合わせると、半数近くが容認する姿勢を示したのに対し、「認めない」は7人だった。ただ、31人が「現時点では判断できない」などと回答せず、国側に住民の理解を得る努力を求める声が相次いだ。

 原発の再稼働時に地元自治体の同意が必要かどうか、法律などに明確な規定はない。電力会社が自治体と結ぶ安全協定でも、事前協議が必要となるのは安全上の問題などがある場合だ。取り決めの上では、審査などで安全と認められれば、必ずしも同意を得る必要はないが、国は地元理解を得る方針を示している。

7原発周辺で再稼働「容認」34首長…読売調査 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

個人的にはその賛否の比率はともかくとして、容認にしろ容認しないにしろ、合わせて16%が態度を明確に表明しているのに対して残りの84%の首長の皆さんが態度を曖昧にしたまま風任せにしているのは、なんだか愉快なお話だなぁと思います。概ね彼らは「国の責任で進めるべきだ」と問題を上へ放り投げている。
しかし別にそれが国民の主流意見から乖離した意見なのかというと、やっぱりそうではないのだろうなぁと。最早危機感のピークは過ぎ去ってしまった以上、そればかりに関心を持ち続けるわけにはいかない。熱しやすく冷めやすい私たち。
経験に裏打ちされた「合理的な無関心」の時代へ - maukitiの日記
先日の日記で国政選挙に関しての「合理的無関心(そのテーマに関心を持つことによる費用と便益と、無関心のままでいた費用と便益を比べた場合後者の方が便益が大きい=無関心で居ることは合理的である)」のお話を書きましたけれども、原発議論をめぐる問題も見事にこうした構図に陥っているよなぁと。わざわざ自分で調べて賛否の表明をするよりも、もうそうした決断はえらい人に任せてしまえばいい、というある種の諦観。もちろんそうしない人も一杯いらっしゃるでしょう。しかし結局のところ、反対にしろ賛成にしろ、そうした人たちは限りなく少数派となっている現状。
かくしてその決定権は上へ上へと放り投げられていく。
その意味でやっぱり反原発運動にトドメを刺したのは、原発推進派というよりはむしろ無関心層なのだろうなぁと。最早それが重要な争点とすることすらも否定してしまっている。


別に政治家や専門家のような人たちまでもがそうするべきだと思っているわけではないのでしょう。偉い人や知識のある人が考えてくれればそれでいい。しかし、だからといって、別にただの一般市民である自分までもがそんな難しいことを考える必要はないだろう、なんて。
長期的にはこうして大多数が関心をもたないことこそが――3・11の福島がそうであったように――より大きな災いを招くことになるかもしれない。しかし、少なくとも短期的にはもう殊更に自分個人が大きな関心を持っても意味がない=合理的だという結論にたどり着いている大多数の人びと。



でもまぁ仕方ないよね、長期的には私たちはすべて死んでいるわけだし。