あの時の彼らの「民主主義と自由の相克」のとても愉快な解決方法

近いものとしては自由貿易や環境問題のそれと似た構図なのかなぁと。


あまりにも無邪気に「民主主義はすばらしい!」と持ち上げ過ぎた果てにあったもの - maukitiの日記
ということで、自らのことは棚に上げて一喜一憂するばかりな愉快な人たち、についての日記を書いたらなぜかものすごく炎上してしまったというオチ。一体なんでこんなことに。はてぶ新仕様コワイ。実際まぁ今回の「自らの論理過程をスルーして、最終的な解答を押しつけるしかできない人々」の前フリとして軽く書いただけなので突っ込みどころは多いと思うのでごめんなさいしておきます。ごめんなさい。
ともあれ、そういった次第なので本編たるこちらも広い心で生暖かく見守っていただければ幸いであります。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38191
を見て考えたお話について。

 だが、エジプトの事例は、民主主義が時折、その他の大切な自由を損なうことがあることを示唆しているものの、カイロでの出来事は一方で、「リベラルなクーデター」なるものが存在しないことも物語っている。選挙で選ばれた政府を倒せば、抑圧を行うことになる。そして抑圧は、検閲、政敵の検挙、また多くの場合、街頭での銃撃を意味する。

 民主主義と自由は同じものではない。しかし、民主主義を転覆させることは往々にして、同じ悲しい結末に行き着くのだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38191

この結びの言葉がやはり、昨日書いた民主主義の(自称)伝道者たる彼らの『限界』を示しているんじゃないかと思うんですよね。「民主主義は時折自由を損なう」「クーデターはいけない」ええ、確かにその通りです。
――しかし、だからといって、彼らは身のある代替案を提示することができないわけで。せいぜい「それぞれ対話するべきだ」なんて空虚な言葉を投げかけるだけ。でも仕方ないんですよね。だって、彼らはもっと俗っぽい理由で民主主義をスタートさせ、その後の混乱を今のそれよりずっと過激な手法でその危機を乗り切ってきたわけだから。





そもそも、フランス革命から諸国民の春までの数十年間も、当時のヨーロッパにおける民主主義の歩みは遅々としたものであり、せいぜいイギリスやフランスのような納税額による制限選挙であって、国民主権どころかむしろ絶対権力に舞い戻る国がほとんどでもありました。それでも18世紀末頃から始まる農業社会から産業社会へと徐々に変わっていく中で市民の制限選挙に対する不満は高まっていくものの、しかし政治的エリートたちにとっては当然、そうした動きは「治安に対する脅威」として弾圧対象でもありました。
そうした中にあってヨーロッパで民主主義=普通選挙制度の利点が明らかになるのはプロイセンの成功がその端緒となります。
つまり、後にドイツとなる彼らは、単純にその「規模=人口」によらない精鋭たる軍隊、まさに当時ヨーロッパにおける最強の軍隊をその制度の力によって生み出したのです。その基盤は直接にはよく整備された官僚制と軍事制度にあったわけですが、更にもう一歩進めると「国家を自らの国家である」と認識できる=政治参加できる無数の民衆の愛国心という存在の帰結であったわけです。19世紀の半ばにプロイセンはいち早く普通選挙と強い権限を持った議会を規定した憲法によって、それを達成したのです。
そんな強力な軍隊を目の当たりにし、周辺国は更にその強さを身を持って味わった、ヨーロッパ諸国家は自身が強国であろうとするならば、選択の余地なくそれを模倣するしかないことに気付くのです。自らの国家がより強力であるためには、国民統合を完成させる必要があり、そしてその為には国内における社会紛争(産業労働者の増加)を完全に排除することが不可能な以上、一定程度で制御する必要があるだろう、と。
プロイセンのようになる為には、プロイセンの制度を取り入れなければならない。マイケル・ハワード先生はこうした軍事力と社会制度の関連についてにおいて次のように明確に述べています。
「国家の軍事制度は社会制度と切り離して存在するものではなく、社会全体の一側面である」
こうして、善意や社会的良心云々というよりは、むしろ単純に必要に迫られることでヨーロッパの政界指導者たちは次々と民主主義へと転向していくのです。政治参加を通して愛国心を育て、そして産業化に伴って無数に生まれた労働者たちによる社会紛争を抑制するために。
ちなみにこの構図は概ね私たち日本でも同じだったりするんですよね。黒船の来航によって危機感を抱いた私たちは国家の独立維持という生存戦略の一環として近代化と、そして民主主義を追求するようになった。
(現在の先進国に連なる)当時の国家指導者たちは、革命云々というよりはそうやって民主主義を軍事競争の為の必要悪として、不承不承受け入れていったのです。




さて置き、こうして普通選挙へ進むことで当然、現在私たちが見ている状況と同じように、彼らもあの時代にあって「あるべき国家像」についての意見の差異は大きくなっていきます。
ある人びとは宗教(特にカトリック教会)を重視していたし、またある人びとは労働者による世界(まぁ世界=ヨーロッパなんですけど)同時革命を夢見ていたし、あるいはリベラルな民主主義をより進めようとする人びとや、そして伝統的な強権体制を温存しようとする軍部や貴族・王党派な人々などなど。ちなみに、当時のヨーロッパにおいても、民主主義者が最も敵視していたのは宗教勢力(特にカトリック教会)であったりしました。
さて、では一体、当時の彼らはどうやって――現在の「アラブの春」の状況に通じる――この諸勢力が分裂した混沌状態を回避したのか?
もちろん現代の彼らが言う「対話」なんかではまったくなく、
あの時「反ユダヤ主義」と「外国の敵」とそして「戦争賛美」を訴えることでその民主主義の拡大に伴う分裂状況を回避したのです。「市民の自由を損ねる」とかそういうレベルじゃない彼らのぶっ飛んだ解決方法。
特に伝統的にヨーロッパにあった反ユダヤ主義は諸勢力の共通の敵として、そこで大きな役割を果たすことになります。だから逆説的に、あの『ドレフュス事件』はヨーロッパの民主主義の歴史において国際的な重要性を持っているのです。まさにヨーロッパにおける民主主義が軍部に平和的に勝利した最初期の一歩として。
ただそれでも、上記ユダヤ人への冤罪事件の存在が証明するように、当時の流れとしては経済危機及び民主主義による混乱回避の為のスケープゴートとなったのはユダヤ人たちであり、そして排他的な愛国主義だったのでした。
「当面の対立点は放っておいて、とりあえず不気味な異邦人であるユダヤ人たちを追い出そう」
「当面の対立点はあるけれども、しかし外国の奴らが我らの国を狙って戦争を起こそうとしているのでやっつけよう」
よりぶっちゃけてしまえば人種差別とナショナリズムによって、あの時の彼らは民主主義の拡大に伴う政治的混乱を回避することに成功した。まぁ結果としてよりロクでもない事態を招くことになるんですけど。


そりゃ、欧米*1のリベラルな彼らは自分たちの真似をしろなんて口が裂けても言えませんよね。
上記のような過去の上に現在があるからこそ、動機にしろ手法にしろ、彼らはその動機について善意や社会的良心を叫ぶことしかできないし、あるいはその混乱の調停について何か具体的な解決策さえ提示できずに「対話しよう!」なんてヌルいことしか言えないんじゃないかと。かくして一部のお節介で善意に溢れる彼らは、なんとなくその「民主主義はすばらしい! だから君たちも一緒にやろう!」という教典をひたすら唱え続けることになる。


その意味で、100年以上昔の先駆者たるヨーロッパの人びとよりも、今の『アラブの春』のように現代で同じことをやろうとする人たちの方がずっと難易度が高いことを要求されているよなぁと思うんですよね。それはおそらくイスラムだのキリストだのといった理由だけではなく、結局、環境や状況そのものがまったく違うから。
現代の政治指導者にはかつてのような軍事競争の助けになるといったインセンティブはないし、外野から口うるさく修正しようとする第三者も居なかったし、一足飛びに制限選挙を飛ばして普通選挙を強制されることも、あるいは昔のように混乱回避のための何でもアリな手段が許されているわけでもなく、そして何より時間制限も全然違っていた。
もしかしたら現在のエジプトも排他的愛国主義や、あるいは人種差別を利用することで混乱を回避することができるかもしれない。でもそんなことはまず間違いなくありえない。
だってそんな無体なことは、偉大な先駆者である「あの」人々が許さないから。いや、まぁ、確かにそこを否定するのはまったく正しいと言っていい。ただ、それでも、こうして見ると「自分たちは早めに達成しておいて良かったよね」と生暖かい気持ちになってしまいます。




かつては誰にも邪魔されずに好きなことをできていた先駆者たちと、当然の権利としてその後を追おうとしたら(なぜか自身の過去のことは棚に上げて)「きみきみ、そのやり方はよくないなぁ〜」なんて上から目線で注意され手段を制限される後発者たち。
やっぱりなんだか南北問題でよく見るあるあるの風景ではあるよなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:といってもアメリカは微妙に事情が異なるんですが。でも優生学と人種差別の本場と言えば当時のアメリカであり、ヒトラーさんの反ユダヤ主義アメリカのそれがお手本にあったわけで。