同時に『人種差別』と『銃武装』を両手に装備することでめんどくささパワーが二倍に!

そこへいつもとは違う初の黒人大統領たるオバマさんがジャンプしながら登場することでめんどくささパワーは更に二倍! そして騒ぎを無駄に煽りたてるマスコミが加わるとその歪められた回転力によってなんと更に三倍のパワーへ! これで1200万パ略


無罪評決に全米で抗議デモ、米大統領「法治国家」強調 黒人少年射殺事件 写真20枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで無罪判決が出てしまったそうで、アメリカさんちでものすごく盛り上がってる例のお話であります。
ジマーマン事件、或いはマーティン事件・・無罪判決下る - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.
なぜか日本でも事件経過やその是非がどうこうについて色々あるそうですが、当然僕なんかには知る術もないのでノーコメントということでひとつ。オバマさんの言うとおり、無罪判決が出たのだから無罪だったんじゃないかな。


しかしまぁ今回の件でまためんどくさい立場に追い込まれたのがそんなオバマさんだよなぁと。恒例の、例によって例の如くとも言えるんですけど、過激な黒人民族主義な人たちからまた責められてしまいそうです。
「なぜオバマは黒人の味方をしないのだ!」なんて。
この辺はオバマさんの就任以来の二律背反ではありますよね。明らかにアメリカにおける『黒人との融和』の象徴でありながら、しかしだからこそ、彼には一方的に黒人の立場に立つことは絶対に許されない。まぁ実際積極的に彼がそうしたがっているのかというと(ぶっちゃけ混血だし超エリートだし)あんまりそういう感じもしませんが、だからといってその「融和の象徴」という役割から今更降りるわけにもいかない。白人の大統領である場合よりも、ずっと繊細なバランス感覚が求められることになるオバマさん。いやぁ彼も大変ですよね。
ただまぁ、昨今のオバマ政権と言えば、例のなんとかゲート祭りやスノーデン君やシリアにエジプトとそれはもう課題山積でめんどくさいことに巻き込まれているので、少なくとも今回の方がまだマシと言えなくもない、ある程度の矛先そらしとして今回の件で前に出てくるのは実は歓迎しているのかなぁとも少し思ったりします。




ともあれ本題。銃規制と人種差別について。
全米を揺るがせたジマーマン無罪判決の意味 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
個人的にはやっぱり冷泉先生の仰ることに同意するところではあるかなぁと。

 一方で、良し悪しは別にしても、フロリダの「正当防衛法」に照らして考えれば「ジマーマンがマーティン君を怪しいと思っていたかどうか」というのはお構いなしに「撃った瞬間にジマーマンが身の危険を主観的に感じていた」のであれば「撃って構わないし、本来は逮捕も起訴もされない」というのが法的には正当になるわけです。そうした特殊な法律があるにも関わらず、そのフロリダ州の法廷でジマーマンを有罪にできるとか、判決には人種問題が関わっているというイメージを与えたメディアの姿勢にも問題があると思います。

 では、ジマーマンがマーティン君を殺したのは「仕方がなかった」のかというと、そんなことはないわけで、基本的に警察でも何でもない「自警ボランティア」が銃で武装できるという銃規制の問題が根本にはあるのです。無茶苦茶な「正当防衛法」も、単に「取っ組み合いになった場合の正当防衛」ではなく、「そこに銃がある」ために「命のやり取りになってしまう」そのことが異常なのであり、また問題にしていかなくてはならないのです。ですが、アメリカ社会は、問題が「銃」にあるということから、今回も目を背けています。

全米を揺るがせたジマーマン無罪判決の意味 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

結局のところこれは、(もし無罪になったのが悪いとすれば)正当防衛についての法の瑕疵であるし、その先にはこうして簡単に銃で武装し用いることができるという銃規制の問題があるのだ、と。まぁおおむね仰るとおりではないでしょうか。


神話ではない現実政治としての『合衆国憲法修正第13条』のその後 - maukitiの日記
以前の日記で余話として少し書いたお話ではあるんですが、ただでさえめんどくさい『銃武装』の問題は『黒人差別』と絡まってしまうとそれはもう更に途方もない所へまでいってしまうんですよね。
つまり、銃規制を望むのは、黒人に銃武装させたくない白人たちの陰謀だ、というのはそれこそ奴隷解放以来ずっとある彼らの懸念の一つであるわけです。実際、銃武装の根本的議論の一つである憲法解釈の、「人民の権利」か「州の民兵の権利」か、という議論が生まれたのがそもそも南北戦争後の黒人奴隷解放の時代であったわけで。黒人を合法的に武装させないように人民の権利「ではない」ことにしよう、銃で武装するという基本的な権利から黒人を除外しよう、という時代が確かにかつてあったのです。


だからこそ、黒人との対立が最も激しかった1960年代にはあのマルコムXさんなんかも「すべての黒人は(白人と同じように)憲法で認められた自己防衛のために武装する権利がある」なんて言っていたのです。まさに公民権運動と人種差別と戦う一つの手段として。
こうした構図において、銃規制問題の諸悪の根源として語られる全米ライフル協会=NRAは、有名な前会長チャールトン・ヘストンさんなどが一貫して人種差別に反対し当時にはキング牧師の支持を表明してきたように、彼らは人種主義とは一線を画しているわけです。武装する権利は白人であろうが黒人であろうが、すべての人民が持っている権利である、と。
まぁもちろんNRAとしてのそれは黒人の銃規制反対派を増やそうという政治的打算に基づいた振る舞いでもあるわけですが、それでも彼らは人種問題をむしろ逆手にとって相手への非難に使っている。現実に人種差別が温存され続けているからこそ、彼らのその平等主義なやり方は説得力を持ってしまう。「人民すべてが持つ基本的な権利を奪おうとする人間こそが、実は人種差別主義ではないか?」なんて。
実際あった黒人差別の歴史を考えると、それをバカげた考えだと完全に一蹴することもやっぱり難しいのだろうなぁと。



「われら合衆国の人民の基本的な権利」について。
この「われら合衆国の人民」という部分に「当然黒人(マイノリティ)も含まれる」というエクスキューズがわざわざ付いている現状が続く限り、この問題を進めるのはものすごく大変なのでしょう。ということで個人的には、アメリカにおける人種問題が解決しない限り、「全人民の武装する権利」という建前を持つ銃武装の問題が解決することもないんじゃないかなぁと他人事ながら思うところではあります。


銃をどうにかしたいのならば、まず人種からはじめよ。
むりそー。