ビッグブラザーとテロリスト、より恐怖を覚えるのはどっち?

恐怖の大きさが決める優先順位について。



http://japanese.ruvr.ru/2013_08_02/119018939/
まぁまるでどこかのディストピアを描いたショートショートにありそうなお話ではありますよね。妻が「圧力鍋」を検索し、夫が「リュックサック」を検索し、そして息子が「テロ事件」を検索することで、まるでその一家には爆発事件を企むテロリストが居ると思わせてしまった。
その(実際に事件が起きた)タイミングと幾つかのキーワードが一致した時、ある早朝、平穏だったはずの家庭にチャイムが鳴り響く。
「○○さーん、いらっしゃいますかー?」
こんな朝早くから一体誰がと訝しみながら主人が扉を開くと、黒ずくめの男たちが一斉に――

「ガーディアン」紙が伝えたところによれば、ミシェル・カタラノさんが圧力釜をインターネットで探していたところ、3台から4台のジープに乗った6名の警官がやってきたという。了承を得た上で家宅捜索を行い、圧力釜があるかどうか問いただされた。炊飯器があることを知った警官たちはそれで爆弾が作れるかどうか聞いてきたという。警官たちはインターネット上でのミシェルさんの検索履歴に基づいて捜索を行ったという。その中には「圧力釜の爆弾」および「リュックサック」がヒットした模様。主婦は圧力釜を探し、夫はリュックサックを検索し、息子はボストンテロ事件を調べていたという。その結果、誰かの頭の中でボストンテロ事件後の米国におけるテロのイメージに合致してしまった。

http://japanese.ruvr.ru/2013_08_02/119018939/

ともあれ、まぁスノーデン君の暴露ネタの時にも少し書いたお話ではありますが、やっぱり彼らは今も尚『ポスト9・11』の時代に生きているのだろうなぁと。当事者として、あの恐怖を忘れられないからこそ、彼らはこうした監視社会を不承不承ながらも許容している。
「大衆を動かす為に最も手軽な手段の一つは「恐怖心」に訴えることである」
しばしば現代政治について議論される時に語られるお話について。だからこそ一部の政治家たちは人々の恐怖心を煽ることで特定の政策を実現しようとするのだし、あるいは官僚たちにとっても人々の恐怖心へ作用する事柄に予算をつぎ込むことは「そうではない」所に予算を使うよりもずっとハードルが低い。


「恐怖を感じる事故」と「実際に危険である事故」は必ずしも同一ではない - maukitiの日記
先日に書いたお話ではありますが、「実際に危険であることと、恐怖心を覚えること」は必ずしも一致するわけではないんですよ。しかし私たちはしばしば気付かない内にそれを混同し、実際の数字よりも恐怖という感情の方を優先させてしまう。その恐怖心は必ずしも自分の身の安全というだけでなく、むしろそれで済んでいればどこまでいっても究極的には自分自身のことでしかないのである程度の所で開き直ることができるものの、しかし「家族や子供」の身の安全という所に踏み込むとそれはもう果てしなく暴走することになるのです。それはまぁ古今東西どこの社会でも見られるごく当たり前の光景であります。自身の安全というよりは、家族の安全を求めるが故に、激しく右往左往する人びと。
実際、私たち日本におけるあの3・11後からの反原発運動で大きな勢力となったのが「子供」を心配する母親たちであったのと同じように、アメリカにおける9・11後に「子供」を心配する母親たちの声の大きさは、その後の政府による対テロ活動を大きく後押ししたりもしたんですよね。
それは別に良いとか悪いとかバカだからとか賢いとかそういう次元のお話ですらなくて、まぁ私たちが人間という動物である以上、一生逃れられない宿痾なのでしょう。


――かくして、現在のアメリカでも「自由の侵害」や「カネの無駄」という少なくない批判の声がありながらも、そのテロ捜査=監視社会に膨大なリソースが注ぎ込まれているのです。単純に効率から見れば明らかに他の部分に金を使った方がいいのは、おそらく間違いないでしょう。ただ無辜の死者数を減らしたいだけならば、銃を規制した方がいいし、あるいは自家用プールを減らすべきだし*1、もっと交通事故や病気を減らすことに金を使った方がずっといい。
しかし、それでも、その恐怖がもたらす感情に抗うことは難しい。だからこそ私たちはただ『危険』を減少させる政策よりも、むしろ『恐怖感』を減少させる政策こそをより支持するのです。


おそらく、この傾向はそのテロに対する恐怖心を上回る程の恐怖がなければ続いていくのでしょう。だから、この監視社会への流れを止めるのに必要なのは「それをやってもテロを抑止できない」や「もっと他の分野にリソースを投入するべきだ」というような合理的な理性へ訴える説得ではないと思うんですよね。それでは、この流れを止められない。
――必要なのは「テロの恐怖」よりも「ビッグブラザーへの恐怖」が勝る状況、なのです。
その意味で、もしアメリカ政府の暴走を抑制したいのならば、それこそ「どれだけアメリカ政府が横暴で邪悪な監視をしているのか」というアピールなのでしょう。だから例のスノーデン君はその意味では真っ当な戦いを挑んでいるとも言えるんですよね。まさに彼は「テロよりもずっとアメリカ政府の方が恐ろしいことをやっているぞ!」と正しく主張して見せた。
しかし、悲しいことに、その意見には――他国の人々はともかくとして――肝心のアメリカ国民の多くには全然届かなかった。アメリカ国民たちはごく当たり前にビッグブラザーよりも、テロリストこそを恐怖している。まぁアメリカって昔からそういう所ありますよね。普段は「小さな連邦政府だ!」とか言ってるくせに、あっさり全体主義な所へ踏み込んでしまう。逆に権力監視というか権力不信が素朴に根強い一部ヨーロッパでは逆の結果が出たりするのでしょう。じゃあ日本はというと以下略。
つまり、このスノーデン君の暴露ネタで間接的に問われているのは「(実際に危険性がどうであるかは別として)『国家』をどこまで感情面から信用できるか?」というお話でもあるのかなぁと。もしその暴走への恐怖が最上位に来るようであれば、PRISMのような監視プログラムが人々から承認されることはないでしょう。しかし、少なくとも現在のアメリカではそうではない。
皮肉な話ではありますが、もしこれが子ブッシュさんの米国大統領時代だったらもう少し違う展開だったかもしれないなぁとも思うんですよね。その対称として持ち上げられたオバマさんだからこそ、逆説的に彼の率いるアメリカ政府ならば最後の一線は越えないだろうと(実際にどうなのかは別として)盲目的に信用されてしまっている。二人の大統領の、単純な二元化による弊害。
もし本当にアメリカ国民のビッグブラザーへの恐怖心を広く大衆に煽ろうとするなられば、その告発は子ブッシュさんの時代にこそやっておくべきだったのにね。まぁ例の無人機爆殺祭りなどを見ると実はオバマの方がヤバいだろう、というのには結構頷いてしまう所ではあるんですが。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:「プールで死ぬ可能性(1万1000個あたり1人)と銃で死ぬ可能性(100万丁強あたり1人)では比較にもならない。モリーがイマニの家のプールで溺れて死ぬ確率は、エイミーの家で銃で遊んでいて死ぬ確率の、だいたい100倍である」「銃教育」についての是非 - maukitiの日記