「友達は選びなさい」の先にあるもの

私たちはいかにして『世界観』を獲得するのか?


http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
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辺りを読んで社会学的好奇心が刺激されたので個人的雑感。以下日記にふさわしい適当なお話なので、世界=社会=集団=友達、はいわゆる「付き合っている人々」という意味のあまり厳密に定義された意味で使っていないと読んでくれると幸いであります。

 彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。

 彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。許さないものがあるのだとしたら、それは許さない側の理屈がおかしい。「うちらなんにも悪いことしてないのになに文句言ってくるの」ということになる。

 これがメカニズムのひとつめである。

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彼らの世界と、あなたたちの世界と、私たちの世界。
彼らのこうした(私たちから見て)あんまりな愚行を見て「別の世界に生きているとしか思えない」というのは、限りなく正解に近い感想ではあるのです。そもそも同じ日本に住んでいるものの、しかしそのもう一段下では別の社会に生きているわけだから。更になまじ同じ(あまり差異のない)日本人だからという意識が前提としてあってしまうからこそ、少なくない人は大きな衝撃を受けてしまう。もしこれが、人種や、宗教や、風俗のまったく違う社会集団を見ていれば、おそらく「まぁそんなものだろう」と受け入れていたと思うんですよね。同時にまた単純に「バカな奴らだ」と断罪することもあまり出来なかったでしょうけど。
以前のイジメかなんかの日記で書いた気がするお話ではありますが、ここで重要なのは、違う世界に生きると言うことは単純にそこの人々と恒常的な相互交流がなく縁がないというだけでなくて、そもそもそこの人々と思考の基礎となる価値基準や常識というような『世界観』そのものに差異が生まれているということでもあるわけです。日本人と外国の人たちとの間に多くの考え方で違いがあるように、同じ日本人であろうと、違う社会集団であれば当然まったく違う考え方を持っているものなのです。そしてそれを決めるのは内部の人間達であり、外から部外者が何を言ったところで、現実的な圧力を伴わない限り基本的には何を変わることはない。
ある集団にとっての健全さや人気の尺度は、別の集団にとって無知の目安ともなる。それは物理的対象の知覚に対してさえ影響を及ぼすのだから、いわんや政治的・倫理的・審美的基準をや。


聖なる教典に従って生きることがクールであるという社会もあれば、ひたすら金銭的成功を目指してキャリアを積み重ねることがクールであるという社会もあれば、リズムに乗って韻を踏んだ音楽を生み出すことがクールであるという社会もあれば、かっこいい車に乗ってかわいい女の子を引っかけるのがクールであるという社会もあれば、
――そしてアイスケースに入るなんてマジイカレ野郎で最高にクールじゃねぇ? アイスケースだけにね! ――という社会集団があったって別に不思議ではないのです。いつだって異文化は奇妙で奇天烈なモノに見えるのは同じなのです。


私たちの思考や行動は必ず、自身の属する集団社会から多大な影響を受けている。ある社会に属する私たちはその緩やかな総意によって「あるべき社会」を定義しているのと同時に、社会から「あるべき私」を定義されているのです。
それは人間の原始的な衝動である以上、避けようのない本能であります。受容されたい・所属したい・他者たちと一緒に生活したい。まぁ中にはやっぱり偏屈で孤高を愛する一部の人たちもいらっしゃいますけど、しかし大多数の一般的な人びとは素朴にそう願っている。まさに社会的動物である私たちだからこそ。




よくドラマなどで親子関係の不和の象徴として、教育熱心だったりする親が子供に対して「友達は選びなさい」と言うシーンがありますけども、それはまぁ子を持つ親としては不思議ではない忠告ではあるんですよね。だって友達を選ぶと言うことは「世界観を決定する」「自分にとっての神と悪魔は何なのか」を決定する、という意味と限りなく同義でもあるのだから。だから幼少期の友達というのは、その子にとってその後の人生観そのものを決める重要な最初の一歩なのです。つまりそれこそが子供が親(の世界観)から自立し独立する為の第一歩であり、広義の『古き神』の陳腐化でもある。子は自らの手で新たな神を手に入れる。幼年期のおわり。
しかし大抵の場合は、悲しいことに親には理解できない友達を選んでしまった時点で、その後に子へ「友達を選べ」と忠告しても致命的に後の祭りでもあるのです。子供が自発的に「友達を選ぶ」という行為は、つまり自らの価値基準の最初の一歩を決めたと言うことであり、その自立性を否定されてしまったら子供はもちろん反発するしかない。
なぜママやパパに自分の友達関係まで口を出されなければいけないのか。オレにはオレの、アタシにはアタシの、自分の社会があるのだから放っておいてくれ、なんて。
だからパパやママは、そもそも子供が友達を決める前にそう忠告しなければならないんですよ。親の価値観がまだ子供に多大な影響力を持っている間に、子供が友達を作る前にこそ「友達は選べ」と言わなければ無意味なのです。



話を戻して、結局それが何の社会であろうと社会というものはそこに属する構成員に、諸価値や論理や知識や偏見、を提供するのです。私たちはそうやって基本的な世界観を自身へと(多少の劣化を伴いながら)コピーし、その伝道者として社会の一員となっていく。
だからこそ、人種や民族、地域性、宗教、年齢、貧富、教育レベルなどによる区分によって――もちろんミクロで見ればそれぞれに差異はあるものの――テンプレとも呼ぶべき『文化』というモノが生まれるのです。もちろんそれは単純に区分けできるものではなくて、同一社会の内部でも様々に階層化されているし、あるいは別の社会と一部は重なり合い共有したりしている。
それは上述したように人間という動物が持つ、ごく基本的な振る舞いであります。社会はただ私たちの行動を統制するだけでなく、もっと深くにあるアイデンティティや思想、感情までも形成する要因でもある。だからこそ異文化の人びとと完全に融和し解りあって共生社会を生み出すことは――もちろんまったく不可能であるなんて絶対に言いませんが――とても難しいのです。
「個人同士」なら可能なそれも、「社会同士」だと途端に問題は複雑になる。


もちろん私たちが社会から完全に束縛されているのか、というとやっぱりそうでもありません。必ずしも社会からの影響力は万能ではなく、それどころかその社会から自己を疎外させ「逸脱した」個人が社会全体をひっくり返すということもあったりする。その成功例が、いわゆる歴史に名が残るようなカリスマや革命的指導者と呼ばれるようになるのです。ある社会において支配的だった世界観からコペルニクス的転回を成し遂げた偉人として。
――まぁそれとは逆に大多数の伝統的価値観への消極的賛成によって何も変えられないまま、という失敗例が大多数であったりするわけですけど。上述したように私たちは自身が生み出したものではないにせよ、意識的無意識的問わず、過去から続く『社会のあり方』というものの維持と存続と補修に協力してもいるのです。





さて置き、ここまで前置きで、ここから多文化主義や近代国民国家の様態が崩壊しつつある「あまりにも自由な現代社会」に続くんですけども長くなったのでいつかまた。情報や移動の自由になればなるほど、しかし逆説的にこうして個々に細かく分断されていく社会について。