『デモ』が持つ二つの顔

所変わればデモ変わる。


【エジプト】同胞団の抗議デモ不発 動員力に陰り - MSN産経ニュース
そういえば先日の話題になりますが、エジプトの反政府デモは政府側の思惑通り空振りに終わったそうで。その是非はともかくとして、しかし暫定政府によるムスリム同胞団への強硬な対応――ぶっちゃけ弾圧――が功を奏したと言っていいのではないでしょうか。
このまま同胞団の非合法化へと突っ走ってしまうのか。まぁこの構図については、これまでの日記でも何度か触れてきましたけど、どう見てもアルジェリアと同じ構図ですよね。あちらは見事に泥沼の内戦にまで行き着いてしまったわけですけども、エジプトはどうなるかなぁと。でもぶっちゃけ、スエズイスラエルという国際関係がある以上、当時のアルジェリア政府に対してのように国際社会=欧米からの非難の声が大きくなる可能性はあんまりなさそうですよね。国際関係ってすばらしいなぁ。




さて置き、本題。先日の日記健全な『支配の取引』がもたらすもの - maukitiの日記に微妙に関連したお話。民主的国家におけるデモと、独裁国家におけるデモの意味の違いについて。
今回のエジプト現政府=軍は、まぁかなり強引な手法を使ったものの、あの座り込みによる抗議活動への強権的な対応とその後の逮捕祭りによって、同胞団が反攻の機軸としていた今後の抗議活動やデモの予定を見事にぶち壊すことに成功したわけであります。ただそうした対応は、私たちのような先進国に生きる人々にとっては、あくまで大部分平和的なデモである限りは無理矢理に鎮圧することに眉をひそめる人は少なくない。でもまぁ上記日記でも書いたように、やっぱり『支配の取引』という構造自体が違う両者とっては、実はそもそも『デモ』の持つ意味自体が違うんですよね。


一般に私たちがイメージするデモというのは、あくまで平和的な意思表明・抗議活動でしかない。もちろん最終的に選挙があるのだけど、大抵はそれでも許容できない事態が起きたとき、それが始まることになる。実は、この民主主義国家におけるデモってそのほとんどが――もちろんそれが全てだとは決して言いませんが――そうした『抗議』という意味からはまったく別の効果をもたらすのです。
――つまり、民主主義国家ではデモは実は不満や怒りの『ガス抜き』をもたらす。許容できなかったはずの怒りをそうしたことで発散してしまう。デモをやったらやったで、最終的に選挙という手段があると担保されている以上、ごく自然な帰結として、それで大多数の人は満足してしまうのです。
例えば日本でも震災後に起きた反原発デモの時も、あれをやったことで多くの人が原発政策に不満があることを表明した。そのこと自体はやっぱり間違いないでしょう。しかし、それで参加者の多くが、あるいはそれに同感した多くの人が、同時にそれで満足もしてしまったのです。選挙が遠ければ尚更で、かくして本来本気を出さなければいけなかった投票行動ではまったく数字に表れなかった。もし、あの反原発デモを日本政府が下手に抑制しようとしていれば大衆の怒りは発散されずより圧力が高まり、もしかしたらその後の選挙で違った結果が出ていたかもしれない。しかし、ああして「大規模なデモ」が見事に実現してしまったせいで、その怒りの圧力まで下がってしまったのです。
そんな反原発デモの際にも聞かれたように、しばしば「デモは市民の権利だ!」と叫ぶ人がいらっしゃいますけども、確かに一面ではその通りなのです。しかしもう一方の面では、実は民主主義社会においてデモというのは、ものすごく権力側に都合のいい『ガス抜き』でもあるというのは覚えておくべきですよね。
もちろんそれは市民の重要な権利の一つでもあるわけだけど、しかしそれはただ単純に『善』というだけで支持されているわけでもなくて、それを認めることで大衆の不満の圧力を上手く抜くことができる、というとても権力側にも都合がいいからこそ。


ところが、そんな民主的な国家と違って独裁国家におけるデモはまったく逆に、不満の圧力を高める方向に働くのです。だって、その後に選挙などがあるわけじゃないのだから、彼らは多くが集まるデモによってその怒りが大多数の支持の下にあるのだと自覚すればするほど、やがて反政府運動という地平にまで至りかねない。
だからこそエジプトのような国家にとってデモとは文字通り革命の前段階ですらあるのです。選挙が事実上機能していないと自覚のある彼らはそこで手を抜くわけには絶対にいかない。故にそこでは暴力的手段を使うことに躊躇いがない。
この辺は中国でも事情は同じで、よく「彼らは反日デモを利用しても、しかしその扱い方にはかなり気を使っている」と指摘されますけども、まったくその通りなのです。もしああした大規模なデモで多くの人が実は中国政府にも不満を持っているということが「共有」されてしまったら……? 個々の怒りが結集されより大きな怒りを生み出しかねない。だからこそ中国政府は小さなデモでも、まさにエジプトがやっているように、徹底的に弾圧を繰り返すのです。


ちなみに国際関係のお話をすると、今回のエジプトの事態でも見られたようにしばしば国際社会=欧米政府の振る舞いとしてある、そうした独裁国家による暴力的なデモ弾圧への非難ってありますよね。まさにその非難という外国からの(政治的・経済的)圧力がうまく機能した場合、当然その政府によるデモ抑制のタガが外れ、結果として大きな反政府運動を生み出す、というのは実はよくあるパターンだったりするのです。まさに元々今回のムバラクさん時代のエジプトでも、あるいは先日書いたフィリピンでもそうだったのです。独裁者への圧力を掛けることで国内の弾圧を緩めさせ、結果としてその緩和は反政府運動を盛り上げる助けになる。
革命に至る道としての王道のパターンであります。だからこそ、優しい独裁者であればあるほど、実は反体制運動に倒されやすい。
なので長期的に見ればそうした国際社会(欧米)による圧力というのはそこまで無力でもないのです。まぁだからといって、現状の「アラブの春」が証明しているようにその後にバラ色の春がやってくるとは限らないわけだし、だからこそ例の北朝鮮のように世界から全く隔絶されまったく聞く耳を持つ必要のない国であればあるほど、その独裁体制を長年維持できる理由ともなる。
――このことは逆説的に、中国やロシアのような国家がそうした欧米政府による他国への「口出し」そのものを非難する理由でもあります。「お前らのやっていることは内政干渉だ!」なんて。それを許すと言うことは、いつか自分のところにも言われてしまうということだから。
そしてそのわずかな弾圧の緩まりは、いつかダム決壊の一穴となりかねないからこそ。




独裁国家では不満の圧力を高め、民主的国家では逆にガス抜きとなる。それぞれの『デモ』の持つ天使の顔と悪魔の顔。だからこそ、前者では積極的に弾圧され、後者ではむしろ積極的に容認される。
『デモ』の持つ二つの顔。
いやぁ一体どっちが悪魔でどっちが天使なんでしょうね?