看過されるシリアの犠牲の大きさは、同時に私たち自身の平和と安寧の重みである

私たちの平和主義が持つ二面性。



CNN.co.jp : シリア軍事介入、米国民の7割は懐疑的 世論調査
CNN.co.jp : 英仏独国民、シリア軍事介入に「消極的」 世論調査
ということで昨今のシリア介入議論において、「あの」アメカをはじめ先進諸国ほぼ全てで見られる――政治家は別として――国民世論の反対意見の圧倒的な多さについて考えた適当なお話。こうした世界的な『反戦』な状況はもちろんそれはそれで良い面もあるんでしょうけど、しかし同時にまた、先日の日記での日本やあるいは前回日記におけるドイツにあるような、とても利己的な一国平和主義に近いポジションにたどり着きつつあるよなぁと。



さて、一般に21世紀たる現代世界において所謂『植民地帝国』がほぼ完全になくなっている理由の一つは、つまり身も蓋もなく「コストが掛かりすぎるから」という点が最も大きいわけですよね。
「なぜ、自国の治安の為ではなく、現地住民から嫌われ憎まれながら、自分たちの税金を使ってまで海外に植民地を維持しなければいけないのだ?」
――その意見はほぼ間違いなく正論と言っていいでしょう。
かろうじて植民地という概念が生き延びた第二次大戦以降、しかし現地での抵抗運動が活発化する事で、その治安維持の為に支払わなくてはいけないコストは戦後になってから益々大きくなっていきました。かくしてそれでまで世界的な植民地帝国であったイギリスやフランスなどの戦勝国であっても、徐々にそれらを手放していくことになる*1。直接的には現地住民からの抵抗の大きさによって、そして間接的にはその余りにも高過ぎるコストによって有権者たる国民の反発を受けるのは必然であったから。
たとえば、あの国家主義者として名高いシャルル・ド・ゴールさんはフランス植民地であったアルジェリアの独立承認を説明する際にそうした論理を明確に述べていました。

「脱植民地化はわれわれの利益となるものであり、したがってわれわれの政策である」
「どうしてコストが高く、血が流れ、終わりのない植民地の維持に、いつまでもこだわっている必要があるのだ?」

しばしば、反米な人たちからは世界中にある多くの米軍基地をして「それはアメリカの現代植民地であり帝国主義だ!」なんて叫ばれることがありますけども、しかし、それは多くの事例で――日本がそうであるように――実際には現地政府から望まれているからこそ、そこにいるんですよね。あの『9・11』の遠因となってサウジ駐留ですら、イラクの脅威に対抗しようとしたサウジからの要請という面があったわけで。
むしろそんな圧倒的な米軍であろうと、フィリピンやベイルートソマリアやイエメンなどの事例を見れば、その駐留コストが一定限度を越えてしまえば結構あっさり撤退することが多いとさえ言えるのです。その行動の根幹にあるのは、だってそんなことをしていたら最も気にすべき米国国民から理解を得られないから、というとても単純な理由によって。


こうした構図はアメリカだけでなくて、特に民主主義国家における私たち有権者に常識として根ざしている「コスト意識」というのは、まさに現代世界における『平和主義』を支える大きな一つでもあるわけです。更にいえば、それは悪の枢軸とされるイランや、あるいはロシアや中国のような国家の国民たちでさえも例外でない。現代においては完全に常識として普及している、自国軍隊を海外植民地の為に使うなんてなんてことはイコールでバカげた税金の使い方でしかない、という確信。そんな金を使うくらいなら国内に使うべきだ、という当然の要求によって。
単純に善意や正義というだけではない、合理的なコストの計算に基づく海外派兵への忌避。もちろん前者と同様に、それですべての戦争が抑止されるなんてことは絶対に言えませんが、しかし、少なくともそれは平時における抑止力の一つとして見事に機能している。仮に一時の感情でそれを超越することはあっても、しかし長期的には確実に国民たちはその無駄遣いを見過ごすことはない。




しかし、私たち国民のこうした意識の進歩は、逆説的に遠い海の向こうにおける他国への無関心と限りなく表裏一体でもあるんですよね。
まさに現状のシリアが証明しているように、海の向こうでどれだけ蛮行が繰り広げられようと、しかし自分たちには関係ない話ではないか、その為のコストを支払うのはゴメンだ、というとても合理的で、そして利己的な意識につながっているのです。私たちは平和主義者であろうとすればするほど、しかし、自分たちには一見「無関係のように」見える状況は増えていき、ひたすら鈍感になっていく。


これまでの日記でも触れてきましたが、あの『9・11』は単独行動主義ではなく最終的にアメリカを孤立主義――それこそいつかは鎖国にまで至らせるのではないか、というのは当初から指摘されてきた議論であります。つまり、事件直後こそブッシュさんがやってみせたように、コストを度外視し積極的に海の向こうへ反撃をしたものの、ところが時間が経過し国民がいざ冷静になった時、その反動とばかりに彼らはこれまで以上に内向きになっていくのではないか、と。
まさにイラクアフガニスタンでのアメリカのあの失態は、あまりにも大きな教訓を彼ら自身に示しただけでなく、傍観者であった私たちでさえも目を逸らすことができない。一時の感情のままにバカげた海外派兵をやって、途方もないコストを支払う羽目になったアメリカ。その姿は現代世界における非常に明示的で解りやすい失敗譚であり、あまりにも大きすぎる教訓として今後も何年も政策立案者たちの意識に立ちふさがることでしょう。


かくして、前大戦で敗戦国となった私たち日本やドイツには元々あった一国平和主義という態度は、今では世界中――旧戦勝国の皆さんにまで広がりつつある。
その進歩的な平和意識によって、より海の向こうの悲劇を積極的に無視するだけの理由を見つける人びと。どうせ自分たちの税金を使って派兵したって戦後には泥沼に陥り、挙げ句現地住民からは憎まれるだけではないか、という認識は全てではないにしろ概ね正解でもあるでしょう。どうせロクなことにならないのならば、そもそもはじめから何もしない方がマシだ、なんて。
毎日数百人単位で死者が積み上げられ、総勢では既に10万人以上が死亡し、国際的に「虐殺」認定もなされ、現在進行形で200万人以上が難民として国外に逃れ、化学兵器が幾度にも渡り使用されるシリアは、しかし国際社会から見事に見捨てられている。国際法的に『正しい戦争』と認められている、国連安全保障理事会の決議はないし、自衛戦争でもないから仕方ない、と言い続けながら。
――皮肉なのはそれが別に悪意や無関心なんかではなく、むしろ私たちの平和的思考によって。
まさにシリアの犠牲の大きさは、私たちがほんとうに平和主義を大事にしていることの証明でもある。現在のシリアでどれだけ犠牲があっても、しかし私たち自身の平和のためには許容できる範囲にあるのだ、と言っているのに等しいのだと思います。


やり過ぎたターンの後には、反動として、やらな過ぎるターンがやってくる。
そのどちらにも結局は正解はないと大多数の人は解っているはずなのに。しかし、やり過ぎることと、やらな過ぎることの、上手い均衡点を見つけられない私たち。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:遠く離れた海外植民地と、限りなく自国の近場にあるそれとは直接に比較できないこともまた事実ではあります。例えばイギリスのアイルランドとか。