植民地支配が真に恐ろしい理由

次回日記の前振り的なお話。




「国家の繁栄する条件」について。
現代経済学において、一つの大きな流れとなっているのが所謂『新制度派経済学』であります。つまりその社会の繁栄を決定付けるのは、教育水準でも、技術力でも、天然資源の有無でも、開発援助でもない、その社会に如何に適切な『制度』が根付いているかどうかなのだ。というロナルド・コース、オリバー・ウィリアムソン、そしてダグラス・ノース先生らによる研究であります。
安定した財産権、平等の権利、透明性の高い規則など。そうした制度がきちんと整備さえしていればある意味で放って置いても人間は勝手に豊かになっていくし、逆にそれが無ければ幾ら努力を重ねても歪んだ形でしか繁栄はできない。「本能的に繁栄を追及する人間」という本質では誰でも何処でもほとんど差異がないはずの各国社会が、何故こうも明暗が分かれるのかと言えば、その適切なルール・法・規則・慣行の有無であるのです。
この辺は経済というだけでなくて、政治の面からも同様のことが言えるのでしょう。安定した繁栄に必要不可欠な『制度』。



さて、その点からすると『植民地支配』という状態において、真に恐ろしいのは単純な現地にある天然資源などの富の収奪という点ではないんですよね。
つまり、しばしば指摘されるように何故ああも多くの旧植民地がその後の国家再建において苦労したのか――一部では現在でも尚苦労し続けているのかと言うと、そこで宗主国たる彼らが旧来あった伝統的なルールを決定的に破壊した点にあるのです。もちろんそこには明らかに原始的な社会だって多くあったことでしょう、しかし少なくない場所では曲がりなりにもそこまで生き延びてきた効率的なシステムがあったはずなのです。ところがまぁ旧帝国たちはそれらを見事にぶっ壊し、その『制度』の焼け野原としたことで、多くの植民地は独立後の何十年もその負債を背負うことになるのです。
特に代表例として語られるのが、イギリスを筆頭とする旧植民地支配=分割統治が、その後の国家の運命を多くの事例で、悲惨な意味で、決めたというのはほぼ統計的に事実であるとして語られているわけで。
彼ら帝国による「富の収奪を目的とした」植民地政策は、現地住民達が団結しての反乱を防ぐために、それはもう既存の社会制度を破壊するやり方で現地を統治したのであります。それは実際、悪魔的な意味で上手いやり方ではありました。元々現地でマイノリティな政治的弱者を差別的に優遇したり、あるいは一部の族長だけを贔屓し抱き込むことで、現地勢力が団結しないように効果的に分断していったのです。
――故にそれは『分割統治』である。
このやり方が真に恐ろしいのは、そんな植民地統治の間に意図的に生み出された社会的分断が、植民地支配が終わった後も、延々と悪影響を残し続ける点にあります。旧来あった現地の伝統的制度は破壊され、あとに残されているのは宗主国によって押しつけられた歪な政治制度だけ。そんな一部の権力者による「富の収奪」を目的とした政治制度は、当然のごとく甘い汁を吸い続けた人びとにとってそれを変えるインセンティブなどまったく働かず、独立を果たした後になっても改革が進まず、運が悪いとそのまま深刻な内紛へと陥ることになる。


ちなみに蛇足ではありますが、だからこそアメリカなどが現在進行形で苦労しているように現代の戦後復興は難しいんですよね。独裁者を倒した後に、しかし現地政治勢力の適切なバランス配分にものの見事に失敗する。殊更に現代アメリカが無能なのではなくて、100年以上前の帝国な彼らが曲がりなりにもそこそこ上手くいっていのは、そのような悪魔的なやり方を躊躇いなく実行できていたからなんですよ。治安維持を最優先に、将来への悪影響など考慮する必要なく現地の政治構造をまったく無視して統治できていたから。
更に蛇足を付け加えると、その意味で、少なくともこの点において日本の植民地政策はヨーロッパの帝国のそれよりも「幾分か」マシであったとも言われるんですよね。




植民地支配がもたらす決定的な後遺症。逆説的にうまくそうした災厄を――自治権の獲得などによって――回避できた国であれば、比較的独立後もなんとか国家運営を上手く行うことができる。
また現地に旧来あった伝統的政治制度が、より民主的制度に近ければ近いほど、その後の民主化が成功しやすいというのもよく言われるお話ではあるんですよね。民主制そのものではないにせよ、より合議制に近い説明責任・透明性・政治参加意識など、元々それがあればあるほど移行に際しての問題は少なくなるし、逆にそれとはかけ離れた制度であると、とても苦労することになる。
まぁそれもこれも帝国たちに植民地にされてしまうと、宗主国の都合によって上記のようにものの見事にぶっ壊されてしまうわけですけど。


いやぁ植民地支配っておっそろしいなぁ。