セイジッテムズカシイヨネ

では、なぜ私たちはそんなアレな政治家たちに騙され丸め込まれ流されてしまうのか?


ポピュラリストからポピュリストへと堕ちた橋下さん - maukitiの日記
昨日の日記の続きのようなお話。まぁポピュリストにしても、あるいはポピュラリストにしろ、どちらにしても私たちが有権者として政治家を選ぶ際の、適切な判断基準だとはとても言えませんよね。それでも現実を振り返ってみれば、私たちは本質的な政策議論ではなく扇情的な演説・見た目・あまりにも単純化されたステレオタイプな議論によって政治家を選ぶことが、しばしば、ある。
民主主義という概念を発明して以来、紆余曲折を経ながらも、しかし時代とともに私たち市民は有権者としてそれでも少しずつ賢くなってきたのではなかったのか?




でもまぁ身も蓋もなく言えば、現代における政治の風景というのは、そんな私たち有権者としての進歩それ以上により複雑化、高度な専門知識を要求されるようになっているんですよね。
それは政治システムとしての構図もそうだし、また私たちが生きていく上で欠かせない経済でも同じであるわけで。グローバル化によってその規模や関係性が、情報化によってその速度が、それぞれ限りなく進み複雑になっていくこの時代。ただ現状を維持していくだけでも、知識をもった専門家=官僚に頼らなければやっていけない。いわんや現状を『改革』しようとするならば、それよりも更に高度な知識や知見が要求されるでしょう。
最早その専門化・複雑化は、政治として見た場合も、経済として見た場合も、社会問題として見た場合も、それぞれ単体ですらもう充分に素人には手に負えないレベルなりつつあるというだけでなく、それぞれの分野が密接に関係しあうことで更に高度な知識が要求される。


消費税8%、安倍首相が正式表明 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
最近の安倍さんの消費税増税の議論なんかもその一例でありますよね。単純に経済学の議論としてみた場合ですら、コアコアCPIやGDPデフレーター民間給与実態統計調査の比較といった増税議論の背景からきちんとやっている人なんて、日常生活を送っている一般の人々の間ではほとんど見られないわけで。
しかもそんな経済学上の議論というだけでなく、消費税増税のタイミングの是非というのは、ただ経済上の問題だけではなくて限りなく政治的な問題でもあります。国際社会からの日本の財政健全化を見る目、消費背増税という方々に多大な影響を与えずにはいられない一大事業を元々あったスケジュールから動かすことのメリットデメリット、あるいは現状の与野党の政治バランス、これからも確実に続くであろう将来における消費税増税議論への影響など。
こうして全方向に広がる現実を正しく俯瞰した上できちんと議論できるなんて、インテリな人たちを中心にまったく居ないとは言いませんが、それが多数派であるとはとても言えませんよね。少なくとも僕には絶対に無理です。日常生活に追われて生きている大多数の私たちはそんなことばかり考えて生きていられない。
――かといって「知識がないから黙っていろ」なんてことも絶対に言えるわけない。
だからこそ、そんな複雑極まりない政治と経済と社会の問題の機微をきちんと消化して解りやすく提示してみせるマスメディアの皆さん――だからこそ彼らは民主主義国家に必要不可欠な存在でもある――があるわけなんですが、……まぁご覧の有様であります。




より複雑化していく政治と経済。
それを語るための前提として必要とされる知識は、時代を経るごとにどんどん増え続けている。



こんな事は当たり前の事実として、現代民主主義国家に生きる有権者たる人々は薄々解っているはずなのです。
――でも、だからこそ、私たちはなんとなく見た目やタレント候補、「もっと単純な解決方法を知っている!」なんて叫ぶポピュリスト、あるいは「諸悪の根元はアイツらだ!」なんて叫ぶステレオタイプな善悪を語る人々に魅了され投票してしまう。私たちが絶対基準としてバカになったからこんな有様になっているわけではないのです。それはむしろ、ひたすら複雑化し専門家していくことで、一般社会から相対的に乖離していく現代政治への絶望として見るべきなのです。
政治や経済を語るとき、理性的に考えろ、とよく人は言います。
そもそも何故そんなことになっているのかといえば、単純に現代に生きる私たちが殊更に感情だけで生きていくようになったから、という点ではないと思うんですよね。むしろ、そこで要求されるそんな理性のハードルが限りなく高くなり続けているからこそ、私たちは感情にしたがう以外に選択肢なくなっているからこそ、それは多くなっているんじゃないかと。


ひたすらに複雑化し専門化していく政治。そこについていけなくなりつつある私たち市民たち。だからこそ、私たちは政治家を政策以外の要素、なんとなくの雰囲気、感情、パフォーマンスで見るようになっている。重要なのは個々の政策ではなく、政治家が持つイメージである。その是非を判断するにはあまりにもハードルが高いから、「なんとなくやってくれそう」という空気で投票するしかない。
そんなギャップを逆説的に上手く利用するのが、昨日の日記で書いたようなポピュラリストな「有能な」現代政治家たちであるのでしょう。ただのイメージ戦略から更に一歩先をいく現代政治の最先端。彼らは政治家のイメージを能動的に操ることで、生活の延長上にある政治をまるでドラマのように演出するのです。
かくして私たちは、子細な技術論や政策論ではなく、説得力のある形――自身が内心では聞きたいことや信じたいことを矛盾の無い形で上手く語ってくる人こそを――で「何も変えてみせる」と叫ぶ政治家に投票する。ただ感情的でバカで無知なのではなくて、だってあまりにも問題が難しすぎるから。



いやぁセイジって難しいですよね。



みなさんはいかがお考えでしょうか?