なぜ彼らは朝鮮半島出身者をそれほど憎むのか?

勝手に期待しては、勝手に裏切られたと感じる人びと。





差別が社会問題の域に達していない - maukitiの日記
昨日の日記では(ただでさえめんどくさい話題なのに)論点が分散しそうなのでカットしましたけども、思ったよりは斜め上方向に炎上せずに読んでくれた人が多かったようなので、調子に乗ってもう少しだけ差別のお話について。なぜ彼らのヘイトスピーチの問題が日本では多くの市民にとってはあまり取り上げられず、同時にまた何故日本では(実際には非常に恐ろしいものであるはずの)ヘイトスピーチが多くの一般の市民に大きな社会問題として認識されないのか、というお話について適当に書きました。
――では、何故、確実に少数派であるとはいえ、『在特会』のように感情的な恨みを抱く人々が存在するのか?
もちろん「なんてバカな奴らだ」とバッサリと切断操作してしまってはそれまでのお話ではありますが、でもそれだけじゃ寂しいので以下、個人的な雑感に基づくこちらも適当なお話。




まぁ今更ではありますが、そもそも『在日』って別に朝鮮半島系の人たちだけを指す言葉では決してありませんよね。在日といっても、もちろんそれほど数は多くはないものの、アジアを中心に広く世界各地からやってきて多種多様なはずなのです。それは単純に「日本に在る」という意味でしかなかったそれが、いつからかそれが特定の人種像を示すようになってしまっている現状。
いや、別にその定義の是非を言いたいわけではなくて。
つまり、こうした点からも明らかなように、『在特会』のような彼らは逆説的に彼ら自身の言説や行動によってまさに一部の「在日」を特別視しているわけです。そうした振る舞いや考え方というのが、単純に彼らの朝鮮半島出身者に対する人種的偏見「だけ」から導かれているのかというと、やぱり違うんじゃないかとも思うんですよね。実際、あの彼らは世界レベルで見ても稀な過激で人種主義者でバカの集団、というわけでもない。
むしろ、彼らのような同類――と言うとアレですけども、そうした差別的言説に走る人々はそれこそ世界中にいるわけで。
だからこそ、彼らのような存在をただただバカだからと例外視し切り捨てるだけでは、この構図を理解し市民社会において将来的にどう制御していくかを考える上で、あまり適切な態度ではないんじゃないかとも思うんです。




そもそも、一般に朝鮮半島出身の人々は、歴史上から見ても文化的に日本にとても近く、それこそ戦前日本では少なくとも建前上は同じ国民だったわけで。その意味で、数ある在日外国人の中でも、一番近く同化が進んだ存在であるのは間違いありませんよね。
しかし、それなのに、あるいはだからこそ、その事実が一部の日本人にとって差別的感情を沸き上がらせる原因ともなっている。こうした事実を端的に見ると、私たち日本人が「本質的に朝鮮半島の人々に対して拭いがたい人種的偏見を持っているのだ!」というこちらはこちらで同じく極端な意見は、それなりに正しいように見えたりもします。
でもまぁぶっちゃけ、やっぱりこうした構図って言ってみれば世界中どこにでもあるわけで。
つまり、私たち人間は社会内部で同化が進めば進むほど、しかしその感情的反発は徐々に終息していくのではなくて、むしろ逆により先鋭化し沸き上がるようになっている。
例えば、現地社会においてネガティブな意味を持つ行為を「異国情緒溢れる異邦人」がやるのと、「より同化が進んだ『元』異邦人」がやるのでは、私たちは後者の方により大きな怒りを抱いてしまう。まぁそれはまったく理解のできない感情というわけではありませんよね。
フランスのフィリップ・ベルナール先生はその著書『移民』の中でトクヴィルの言葉を引用して、フランス社会にある人種差別を次のように説明しているそうで*1

「十九世紀に歴史家トクヴィルが行った画期的な分析と、それを掘り下げた社会学ブルデューによると、移民への反感は、社会的格差が薄らぐにつれ倍増し、特にそれは過去に植民地だったところの人々に対して抱かれる。過去に支配されていた者が同化するにつれ、支配していた者は本質に基づいた違いから、距離をとろうとする。こうして逆説的に近づくことで人種的偏見が強くなる。アフリカ人やアジア人と違って、現在のマグレブ人はフランス人に近すぎ、異国情緒を感じさせない。しかし、同化できない存在としてつまはじきにする違いは十分にある」

もちろん純粋な移民とは違う存在である以上、この考察が日本にそのまま当てはまるわけではないのでしょうけども、しかしそれなりに共通するお話だと思うんですよね。だから日本の在特会だけが、存在が特別な会、というわけではやっぱりないのです。それはほとんどどこの社会でも、特に宗主国と植民地という関係性が存在した国では、顕著に見られるとさえ言える構図であります。フランスにおけるマグレブ人への感情的反発、イギリスのアイルランドへの半ば固定化された伝統的偏見、ドイツのトルコ人への潜在的不満などなど。
私たちはただの異邦人よりも、むしろ同化が進む人たちにこそ、その「違い」を見つけたときにより大きな怒りを覚えてしまう。完全に異邦人であったならば諦め見過ごすことができたことも、しかしある程度まで同化しておきながら僅かな違いを維持する人々の姿には、「何故違うのだ!?」なんて怒りが抑えられない。
何故味方のアイツが憎いのか - maukitiの日記
もうだいぶ昔に書いた日記なので、今見るとかなりアレな内容ではありますけども、おそらく構図としては近いものがあるのでしょう。完全な敵ではなくより身内に近いからこそその僅かな違いに我慢できない人びと。もしかしたらそれは自身の姿が投影されているからこそ、なのかもしれません。同化しつつある人々の姿から間接的に投影される自らの社会の、あまり直視したくない部分が。
かくして「本当の俺たちはあんな奴と違う!」という怒りへと転換されてしまう。
あるいは何故同化しつつあるのに「正しい日本人として振る舞えないのだ!」なんて。最早元来の日本人にもあるはずない幻想を追い求め、新しくやってくる人々にそんな――彼らの価値観に従う形で――『正しい』姿を期待しては、勝手に失望し怒りを募らせる人びと。まぁその見方からすれば。確かにギリギリ「愛国」の一形態であるのかもしれませんよね。




在特会の人たちの怒りが(少数派とはいえ)僅かながらでも支持されているのは、ただの差別感情の発露というだけでなく、つまりこうしたより根の深い背景があるのではないのかなぁと個人的には思うんですよね。まぁだからといってその行為を正当化するつもりもまったくありませんけども。しかし彼らが例外的なバカであると単純に切断操作し切り捨てていい話でもないんじゃないかと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス』P45