民主主義政治における「せいぎ」ってなぁに?

既得権益の保護と少数派の利益、その両者を分けるもの。



国際貿易の真髄 - maukitiの日記
前回日記の続き、というか本題。国際貿易の是非から見る、民主主義政治における「ただしさ」の基準について。

ならば、国民全体が「ほどほど」に支持する政策を、少数の熱狂的反対を押し切ってまで実行することは許されるのか? というと私たちは困ってしまうわけで。

国際貿易の真髄 - maukitiの日記

一方で、私たちの信奉する民主主義制度というのは、こうした『多数の横暴』に対する抑止力、バランス機構のようなものを持ってもいるんですよね。
みんなの為にお前は死んでくれ - maukitiの日記
民主主義の下での少数派の勝利 - maukitiの日記
これまでの日記でも何度か書いてきたお話ではありますが、つまり民主主義制度においては『少数派の勝利』という構図は、実はしばしば見られる光景でもあります。圧倒的多数が得る「わずかな」利益に対して、少数が失う「大きな」損害、という政策論争において少数派はそれはもう熱心に政治活動を行うから。それも当たり前の話ですよね、だって両者がそれぞれに得るモノと失うモノの比率が段違いなのだから。多数派は多数派である故に一人一人に切り分けられるパイは限りなく小さくなる一方で、それとは逆に少数派は少数派故に同じ大きさのパイであっても切り分けられた取り分は必ず大きくなる。1億人の国民が年間1000円ずつ損をするのと、その国民の内1万人の少数派が年間1000万円得をするのでは、そりゃ後者の方が確実に必死になるでしょう。保護政策をものすごく簡略化すればつまりそういうことなんですよね。
かくして民主主義政治において、しばしば、少数派は勝利する。
これはまぁ上記でも書いたように一面では確かに民主主義政治の矛盾ではありますが、また別の見方をすれば、多数派の横暴を防ぐ抑止力であるとも言えるんですよね。多数派の為に、という大義の元にあまりにも少数派に大きな犠牲を支払わせるような政策は、こうして両者の政策支持に対する温度差によって抑制される。
しかしだからといって、しばしば多くの人が非難するように、やっぱりそれは既得権益の保護と紙一重であるわけで。


ならば「既得権益の保護」と「少数派の利益」その両者を分けるものは一体なんなのか?

  • 「私たちは関税によって守られている国内ワイン業やチーズ業を犠牲にしてまで、海外の美味くて安いワインやチーズを手にするべきなのか?」
  • 「私たちは関税によって守られている国内農産業を犠牲にして、安い農産物の輸入を認めるべきなのか?」
  • 「もし食料自給が安全保障上の脅威があるのならば、なぜ他の産業(繊維業や半導体産業まで、同じく現代生活を支えるのに必要不可欠なはずなのに)は同じように保護されないのか?」 


もちろん現実にはこんな風に単純に話を簡略化できるわけではないでしょう。しかし、それでも、本質的に問われているのは上記のような疑問だと思うんですよね。認められる基準と認められない基準の分岐点について。上記疑問に対してどちらも同じ解答をする人ならばそれはそれで論理一貫していて結構だと思います。
では、それぞれ上記で別々の解答をする人だけでなく、民主主義政治に生きる私たち市民は一体どこにその「(許容されるべき)犠牲」と「(当然得るべき)利益」の分岐点があるのか、という事をきちんと考えなければいけないんじゃないかと。
――だからこそ、こうした政策の是非に際して、僕なんかにはその答えをきちんと解答できないんですよね。だって、その犠牲の大きさと、それによって得られる利益の大きさについて、どのように比較し、どこで「是」と「非」判断したらいいのかさっぱり解らないから。そもそも何を基準に分けたらいいのかさえ解らない。


だからこうして国際貿易などの議論が、まぁものすごく混沌とするのは当然と言えば当然なんですよ。だってそこに明確な基準は今も尚設定されていないから。一体私たちはどこに「正義」を設定するのかについて、まぁ見事に棚上げしている。政策には必ず長所と短所があるわけで。重要なのは、その長所と短所を比較して、どちらの方が良い結果をもたらすのか、ということであるはずなのです。ならば一体どの程度なら、少数派の利益を捨てることが許され、一体どの程度までなら多数派の利益をあきらめることが許されるのか?
国益と幸福とか利益とか、一体誰がどのように決めているの?
そして、少なくとも民主主義がその「ただしさ=分岐点」を教えてくれることはない。




しばしば現代の民主主義政治において、特に財政や経済問題などで一部業界・既得権益者たちの政争にしかならないのはこういう理由があるからなのだと思います。ただの経済学の問題では解決できないなにか。かくして賛成派も反対派も、政治の中心で「国民のために!」なんて曖昧な正義――らしきもの・そう見られているもの――を叫ぶのです。
致命的な判断基準の不在。何が重要で、何が重要でないのか。
そりゃサンデル先生も「正義の話をしよう」と仰るのも無理はありませんよね。民主主義政治は結局の所、そこに行き着かざるを得ないのです。倫理や政治哲学の問題。国益だとか国民利益だとか幸福だとか、そもそも一体その正義=判断基準をどうやって設定すればいいのか?
――でもまぁあの本が売れまくったという事実は、まぁそれなりに私たちがそこに疑問を持っていることの証左でもあるでしょう。その点からすると、それなりに問題意識は共有されてもいるのでしょうけど。


しかし『正義』を決めるということは、同時に『不正義』が定義されるという意味でもあるわけで。その点を考えるとまぁ棚上げにしてきたこれまでの私たちの選択の理由も解らなくはないんですよね。それをやったら確実に大きな反発があるのは間違いない。



がんばれ人類。
みなさんはいかがお考えでしょうか?