痛みを感じよ、と脳は言った その2

痛みを感じよ、と脳は言った - maukitiの日記
先日書いた日記のカットした部分。



余談その1「無痛症な人たち」

この興味深い研究のもう一歩先を考えると、この精神的な痛みの程度こそが、いわゆる『サイコパス』のような人たちと、普通の人々を分かつ壁であったりするのかなぁと。彼らは別に「他人がどういう気持ちになるか」が解らないわけではないんですよね。それを理解した上で、しかし自分はまったく痛痒を感じないというだけ。

そもそも、痛みとは、身体の何かがおかしいことを知らせるサインです。社会的な痛みは、私たちがみな傷つけられやすいことと、私たちを多くの脅威から保護してくれる新たな人間関係を構築したり古くからある関係を再確認したりすることが必要であるということを知らせる脳のシグナルなのです。

脳にとって社会的なつながりを失う心の痛みは肉体的な痛みと同じ - GIGAZINE

この研究を見ると、彼らは「痛み」によるブレーキが効かない人間、という風に読めたりもするのかなぁと。


余談その2「『差別』を究極的に解決するためのたった一つのさえたやりかた」

そして、この事実が更に私たちに突きつける事実というのは、現代社会でしばしば見られる『差別』という事実が、とっても救いようがなく、そして避けられない事象でもあるのかなぁとも思ってしまうんですよね。もちろんだから差別は正当化されるのだなんて言いたいわけではなくて。「痛み」があるということは、つまり効果がある有効的手段であるということの逆証明でもあるのだから。
痛みがもたらすのは、防衛本能であると同時にやっぱり攻撃本能でもあるのです。相手に苦痛を味あわせたい、というだけでなく、自分はその苦痛を味わいたくない、という気持ち。だからこそ追いつめられた人間であればあるほど「先手必勝」とばかりに先に手を出すのです。
いつだってそこには紙一重の差しかない。


逆に僅かな希望として将来へ展望できるのは、現代社会において法学・政治学・経済学上で尚議論の難しい難問の一つに「精神的苦痛」の計測があるわけで。肉体的苦痛の見積もりはかなり正確にできるようになったと言っていいでしょう。しかし精神的苦痛はそうではない。だからこそそれが必要以上に軽視されたり、あるいは過大視されたりするからこそ、そこに大きな論争が発生してしまうんですよね。
もしかしたら今回のような「脳が感じる痛み」の研究が進めば、精神的苦痛の程度も測定できるようになったりするのかなぁと思ったりします。そうすれば、おそらく、肉体的傷害と同じように、精神的傷害がきちんと一定の基準の下で規制されるようになったりするのかなぁと。
「脳の痛みが測定される世界」
こんな風に考えると、まぁなんだかとってもSFなお話ではありますよね。一歩間違えるとものすごくディストピアな世界にいってしまいそうですけど。



みなさんはいかがお考えでしょうか?