笑ってはいけないバカッター

ギリギリなので短めに。



病みツイートで救われながら承認も得られる ソーシャルメディアとの正しい距離感 ソーシャルメディアと承認【後編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン
結構あるあるなソーシャルメディアについてのお話ではありますが『ストレンジファミリア』『メディアリテラシー』など面白いお話が多かったので一読する価値はあるんじゃないでしょうか。個人的には「ストレンジファミリア=見慣れたよそ者」というのは実感としてもよく解るお話だなぁと。幸いにもうちのブログでもそういう方が(おそらく)いらっしゃって、なんだかんだとノリに付き合ってくれ許容してくれるという安心感と同時に励みになっておりますので、まぁその意味ではこのブログも僕のある種の自己承認をそれなりに満たしてくれているのかもしれない。
ソーシャルメディアのドツボに嵌って魔女化してしまう人たちというのは、なんというか、黎明期ネトゲのギルドの人間関係を思い出して胸がざわざわします。あまり風通しのよくない内輪の人間関係というのは、バーチャルに限らず現実世界でもいつの時代もどんな場所でも、ある種の安息であると同時に悲劇でもあるのでしょうね。




さて置き、特に面白かった次の部分。

――そうすると、学校でソーシャルメディアの使用法を学ぶとか、そういうことも必要になってくるかもしれませんね。

 そうですね。でも現実には大変でしょうね。現在の日本のメディアリテラシー教育ではこの問題に到底対処できないと思います。たとえばケータイの問題に関して教える際にも、基本的には「ネット上で悪口を書かれたら、相手はどんな気持ちになるかな? イヤだよね? だから友達がイヤな気持ちになるようなことはやめよう」といった話に終始しがちです。でも海外での事例を聞くとまったく違います。簡単に言うと、「なぜ企業はソーシャルメディアを使わせようとするのか?」というところから入るんです。

――話を聞けば聞くほど、日本のメディアリテラシー教育は遅れを取っているように思います。

メディアリテラシー」という概念がゆがんで入ってきてしまったからでしょうね。海外のメディアリテラシー教育は左翼から生まれた教育なんですよね。世の中の多数派の考え方や資本主義を疑ってみようという姿勢が強いものです。だからイギリスでは政権が変わると予算を減らされたりします。本来は政治的なものなんですよ。

――なるほど。

 でも日本では「お友達の気持ちを考えましょう」に終始するので、それが反転して、友達同士のノリを壊さないようにバカッターに写真を投稿しましょう、になってしまう。これは変えなきゃいけない。

病みツイートで救われながら承認も得られる ソーシャルメディアとの正しい距離感 ソーシャルメディアと承認【後編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン

この辺は仰る通りだと頷くしかありませんよね。うちの日記でも以前少し書きましたけど、「相手の気持ちを考えた」結果「友達同士のノリを壊さないようにバカッターに写真を投稿」する彼ら。そこには社会集団として、まったく別の論理=相手を想定しているいうことをまず考えなければいけない
だからこそ――それこそ小学生程度まではいいとしても―「自分がされてイヤなことは相手にもしないようにしましょう」というある種の道徳の教育方法には限界があると思うわけで。まさに彼らは正しく「相手が嫌だと考える」からこそ、その身内の中だけで通じるノリや空気は先鋭化しソトの社会と乖離していく。


で、そうした身内の論理こそを優先する態度は「バカな」人たちだけなのかというとそんなことなくて、

リテラシーが低いと、特にパターナリズム(庇護主義)的な傾向の強い日本では、問題が起きたら「即規制だ!」となりかねない。実際、ソーシャルメディアでの「出会い系」的利用や課金の問題などでは、消費者育成ではなく、利用規制によって未成年の市場を切り捨てざるを得なくなりました。未成年の際限ない利用には僕も反対ですが、利用額などに規制がかかればそもそも市場にキャップがかかることになります。

病みツイートで救われながら承認も得られる ソーシャルメディアとの正しい距離感 ソーシャルメディアと承認【後編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン

しばしば、本来ならば大前提としてあるべき、国際的な議論を無視して島国根性丸出しで「内輪の自分たちが気にする点」のみを考えて賛否を決める構造に突っ走ってしまう私たち。まぁそもそもの教育の失敗と言ってしまってはそれまでではありますけど。
ソーシャルメディア議論というだけでなくて、原発でも、最近の秘密保護法案でも似たような所にあるよなぁと。そもそもの核兵器との関連から切り離すことができない『原子力の平和利用』という国際社会が必死になってその最後の一線を守ろうとしている国家の基本的権利という観点なんてまったくない所や、あるいは平和を維持していくための国家安全保障上の『秘密』を如何にして抑制するかという観点こそが重要なはずが、何故か「戦争をできる国にしようとしている!」とか。
別に結論そのものを国際基準に合わせろとかそういうことを言いたいわけではなくて、きちんと議論したうえで我が道を行くというならそれでもいいんですよ。ただ、そもそもマトモな議論無しに初めから結論ありきで我が道を行こうとするのは正直アレだよなぁとどうしても生暖かい気持ちになってしまうんですよね。それこそ普段は国際的基準に合わせるべきだ、なんて言っておきながらご覧の有様ですよ。



その意味で「身内ウケだけを狙ってバカな写真をアップする」彼らについて、ぶっちゃけより大きな日本社会という点で見ると「身内ウケだけを狙ってバカな議論に突っ走る」という構図を晒まくっている私たちは、まぁあんまり笑えませんよね。