あなたのココロの隙間を埋めるヘイトスピーチ

あまりにも魅力的な「不満の受け皿」となるもの。


ヨーロッパで広がるヘイトスピーチ - NHK 特集まるごと
ということで欧州で吹き荒れるヘイトスピーチ禍であります。
なぜ欧州は狭量さを示すようになったのか? - maukitiの日記
差別が社会問題の域に達していない - maukitiの日記
うちの日記でもちょくちょく書いてきているそんなヨーロッパさんちの差別祭り。まぁ、経済不況→政治不信→差別感情の盛り上がり、というのはある種の黄金パターンではありますよね。貧した結果鈍するヨーロッパ。

スタンフォード大学社会学部スーザン・オーザック先生は、その『一線』について、経済的競合関係こそが人種的紛争を引き起こす、と述べているそうで*1。

つまり、そこで重要なのは「積年の恨み」の有無ではなくて、自らの生活のための職を奪う存在であるか否か、こそが問題であると。労働市場(やあるいは住宅問題や水資源分配)などの自らの生活上の直接的な競合関係が激しければ激しいほど、人種的紛争は大きくなる。まぁ言われてみれば当たり前の話ではありますよね。一部の物好きはともかくとして、日々の生活に追われる大多数の私たちにとって、わざわざ他人の人種がどうであろうとなんて気にするまでもない。しかしそこで本来なら自分が座るべきだった場所にガイジンが座っているとなると、怒りを抱かずにはいられなくなる。

「何故おまえが俺の国でのさばっているんだ!」なんて。

差別が社会問題の域に達していない - maukitiの日記

こうした研究の上で、私たち日本での在日韓国朝鮮人を見た場合、その最後の一線を越える要因となる経済的競合関係が――もちろん全くないとは言いませんけど――激しくない故にヘイトスピーチの問題が「そこまで」大きな広がりを持たない=重大な社会問題となってはいない、というのが上記日記で書いたお話であります。ただ、そうした在日なんとかへの攻撃が社会保障費関連で行われているのは、少なくともその前段階にあるというのはその通りなのでしょう。それが正当かどうかは仕事の例と同じく別問題であるのです。「俺たちの仕事を奪っている!」の手前にある「俺たちの税金を無駄遣いしている!」、という、とてもキャッチーな扇動。
しかし、ヨーロッパではまったくそうではない。
この一点において、日本のそれをヨーロッパのそれと単純に比較するのは間違っているし、逆にヨーロッパのそれを日本のそれと同じ構図で見るのはあまり適切ではないと思うんですよね。まったく社会が抱いている危機感も、そして戦っているステージそのものすらも違うのだから。

鎌倉
「ヨーロッパといいますと、人権意識が高いという印象がありますけども、なぜ、こういった事態になってしまっているんでしょうか?」

渡辺記者
「リポートでも紹介しましたように、経済の低迷や治安の悪化に対する人々の不満が、その背景にあると思います。
ギリシャやスペインでは、25歳未満の若者の失業率が50%を超えていまして、厳しい生活を強いられている人も少なくありません。
生活に余裕をなくしたことで、他人を思いやる心を失ってしまった人の中には、差別をあおるような発言を繰り返す極右の政治グループなどに共感して、みずからヘイトスピーチを行い、それがまた差別的な意識を広めているのだと思います。」

ヨーロッパで広がるヘイトスピーチ - NHK 特集まるごと

彼らは、特に貧しい現地住民である彼らは移民との直接競合関係に晒されている。そんな彼らはまさに現実生活の脅威として感じるが故に、容易にヘイトスピーチに同調することになる。この辺は伝統的な反欧州連合な運動なんかでもまったく構図は同じなんですよね、欧州が一つになることで困るのは大抵の場合、地元を離れられない貧しい人々であると。


こうした経済情勢の悪化や、そしてそれを解決できない政治不信など、社会に存在する様々な不満がめぐりめぐってまわりまわって最終的にヘイトスピーチに行き着く。問題はそこなんですよ。歴史の汚点として残るヘイトスピーチが真に恐ろしいのは、こうした様々な社会不満を一つの流れにまとめあげてしまう点にこそあるわけで。
つまり、様々な不満を集める『受け皿』となってしまうことこそが。
「一体何が私たちの社会を悪くしたのか!?」「そう移民だ!」「移民を追い出せば社会は正しい姿に戻るのだ!」
まぁ見事な論理の飛躍でありますが、しかし解りやすいのも事実でありますよね。私たち社会的動物である人間が普遍的に多かれ少なかれ持つ社会への不満を、正しいかどうかは別として、見事に解りやすく代弁している。だからこそそんな大合唱に、本来であれば共通事項なんてほとんどなかったはずの様々な社会への不満を持つ様々な人々を、ソトとウチという形で結集させてしまうのです。


ヘイトスピーチの解決の道を考える上で、重要なのは「移民を差別すること」そのものじゃないんですよ。むしろ彼らが大きな影響力を持ってしまうのは「(移民を排斥することで)正しい社会を取り戻す!」と言っている部分にこそあるのです。
しかしそんな移民を排斥したところで、最早決定的な経済競合関係が生まれるまでに融合してしまった社会を穏当な形で取り戻すなんて絶対に不可能である以上、必ずそれは歴史が教えてくれるようにロクでもない惨劇を生み出すことになる。
だからこそヘイトスピーチなんてものは、人権とか友愛とかそういう以前に、まっさきに否定すべきであるのです。そもそも手段として致命的に間違っている。


真に止めなければいけないのは、ヘイトスピーチを最初に言い出す一部のバカなんじゃないんですよ。むしろそれに同調してしまう大多数の私たちであるのです。彼らは社会不満の受け皿としてそこに流れ着いているだけ。それは社会不満を解決するための対抗言説の不在でもある。他に何もないからこそ、不満を解決する為のはけ口として解りやすい構図を提示する『ヘイトスピーチ』に行き着いているだけ。他に何もないならそうするしかないじゃない。
故にそんな同調する人たちに対してただ単純に「このレイシストめ!」と言っても何の解決にもならないのです。もちろん最初にそれを扇動するバカたちにそういうのは限りなく正しい批判であります。しかし『不満の受け皿』としてそこに流れ着いた人たちを、貧することで鈍してしまった人々を、そのように批判することはまぁ悲しいことにほとんど通用しないのです。本当に言わなければいけないのはそれ以外の、解決手段であるはずなのです。
だって彼らは心の底から「正しく公正な社会」を求めているだけなのだから。しかしそんなものが全く見つからないという現実のクソゲーっぷりであり、そんな切実な願いのココロの隙間を埋めようと忍び寄るヘイトスピーチ


だからヘイトスピーチを巡るお話って結局こういう構図だと思うんですよね。対抗言説の不在故に、ヘイトスピーチがのさばるこの素晴らしき世界。

B「ヒャッハー移民は排斥だー!」
A「ヘイトスピーチに与したって、キミの現在の苦境は何も変わらないよ?」
B「じゃあ他に一体どうしろってんだ!?」
A「……」
B「ほら、ならば、こうするしかないじゃねぇか! ヒャッハー移民は排斥だー!」

いやぁ救えないお話ですよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?