忘れ去られるイスラムの叡智

といってもまぁ私たち日本でもあんまりそれを笑えないんですけど。


まるでいつかの『三十年戦争』みたいなシリアの現在 - maukitiの日記
ということで先日の日記などでも、イスラム世界の分裂=宗派対立を「マジヤバイヨネー」「(ウェストファリア及びキリスト教のそれと比較して)今更そこかよ」というようなことを書いてきましたけども、しかし、むしろイスラムって元々そうした宗派対立を抑制する仕組みを持っていたはずなんですよね。イスラムの叡智。他者の信仰心についてはとやかく言うべきではない、という寛容さ。「剣かコーランか」なんて悪意性のある言葉もありますが、あれだってより正確にいえば「剣かコーラン(を布教する自由)か」という辺りだったわけで。その意味で言えば、確かにイスラム世界というのは概ね(少なくとも宗教的には)本質的に寛容な社会ではあったのです。
だから現在の中東などで吹き荒れる状況をより正確にいえば、乗り越えたはずのひたすら不毛な『宗派対立』が復活しつつあるのではないか、という点にこそあるわけで。




所謂『タクフィール(不信仰断罪)』という概念。
特集「タクフィールとは何か」(1):タクフィール主義者とは何者か
特集「タクフィールとは何か」(2):アボルガーセム博士に訊く
特集「タクフィールとは何か」(3):ガラヴィヤーン師に訊く
基礎知識としてはこの辺が詳しいでしょうか。初期のイスラム教の分派の一つであったハワリージュ派に特に見られた手法。元々イスラムというのは社会の一体性=合意を重視する人びとであるわけで、故に一体性を損ないかねないタクフィールのような行為「他者の内面について争うこと」は上記ハワリージュ派との争いという歴史もあって、ずっとタブー視されてきたわけであります。
こうした考え方は現代日本の私たちにも大変よく解る理屈ではありますよね。他者の価値観や信仰心について「それは異端・不信仰である」と断罪することはそれはまぁ戦争の種にしかならない。他者のそれを自身の正義に照らして一方的に非難する。自分こそ正当であり、故に他者は間違っているのだ、と確信する人たち。まぁ昨今の日本のネット上でも、そんなことをナチュラルに日常生活で実行する非常に愉快でメンドくさい人も一杯いるので、ほんとうにもう少しだけ他人に優しく距離を置いてほしいものだと願わずにはいられませんが。古今東西どこにでもそうした人たちは争いの種になってきたのでしょう。
ともあれ、イスラム世界においてはこの様な「タクフィールは厳に慎むべきである」というのがずっと主流派であり一般的だったわけであります。
――ところが、現代のイスラム過激派な人たちは、そうではない。

 今日、タクフィール主義者たちの主要な基地は、アル・カーイダやターリバーンの中に見ることができる。これらの集団は、ソ連によるアフガニスタン占領時代、アメリカの援助を受けていた。しかしそれから数年後、彼らはアメリカ自身を攻撃するようになる。アメリカによるイラク攻撃後、占領者への攻撃の傍らで、宗教テロが彼らの日課となった。そして今、タクフィール主義者たちは自らの刃を、エジプトのシーア派信徒に向け始めているのである。

特集「タクフィールとは何か」(1):タクフィール主義者とは何者か

彼らは外敵との独立運動や抵抗運動を通じて活動していくうちに、いつしかイスラム世界の統治者などにもその剣を向けるようになった。あいつらは外敵と裏で手を結んでいる、ジハードに賛同しないのは異端者だ、宗派が違うあいつらはムスリムではない、なんて。
いつしかその憎しみは、外敵だけではなく内敵にまで。
そしてその憎しみは、経済格差問題や政府の腐敗という問題と合わさることで、本来穏健派だった大多数の人びとを巻き込む形で大きな流れを生み出しつつある。
こうした構図において、現代の過激派たちのタクフィールをして「ハワリージュ派の再来ではないか」と主流派で穏健派な人たちから懸念されているのでありました。その意味で言うと、彼らのそんな宗派対立というのは単純に後進性というよりは、むしろ克服したはずの過去が再来しているという方が近かったりするのでしょう。


がんばれイスラム