「富裕層への希望」「貧困層への絶望」の間で揺れる中間層による民主主義の天秤

民主主義を殺すのはほんとうに富裕層?



「民主主義への脅威は富裕層」、国際NGOが警告 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
国家間の経済格差と国内の経済格差を混同している、あるいはさせようとしている人びと - maukitiの日記
ということで前回日記ネタの本題。民主主義は富裕層によって破壊されるのか? についての適当なお話。


先日の日記でも書きましたけど、我らが資本主義の大前提にあるのはそもそも「不平等を追求する」欲望であるわけですよね。成功したものと、失敗したものの間に生まれる不平等。そうした公正で血も涙もない『競争』を生み出す制度である故に多くの人に、それは支持される。そんな競争状態はまぁ人間の生き物としての本能的な部分に訴えかけるシステムでもありますが、しかし同時にまた、その帰結である救いようのない格差に絶望することにもなる。
競争という資本主義原理を基本的には正しいと思っていながら、しかしその不平等な結果にも絶望する。
だから不平等や格差問題というのは、私たちが資本主義と生きていく以上このジレンマは必ず一緒に悩み続けていかなければならない矛盾の一つでもあるわけで。格差はできるだけ小さい方がいいと考えているものの、だからといって不平等を完全に無くしたらそれは最早資本主義とは言えない。こんなの永遠に解決するわけないんですよ。


――故に問題はいつだって、私たちがそんな不平等について「許容できる範囲」に収まっているか否かにあるのです。


ここで重要なのは、そんな「許容できる範囲」か否かを決めるのは一体誰なのかというと、それはもう民主的社会においては富裕層でも貧困層でもなく、その圧倒的大多数を占めるだろう所謂『中間層』の皆様であるという点です。だからこそ、健全な安定した民主主義社会の重心を担うのはいつだって中間層にある。
上位20%と下位20%が動かす政治 - maukitiの日記
以前の日記でも何度か書いてきたお話ではありますが、現代の民主的社会ってその政治的熱量によっておよそ(その細かい割合はともかくとして)上位20%の為の政策か、あるいは下位20%の為の政策か、どちらかの少数派による政策が支持されることが非常に多いわけです。それは必ずしもそんな上下20%こそが「決定権を握っている」という事を意味しているわけではありません。むしろそんな両者のうち、中間層がどちらを支持するのか、という構図であります。
身も蓋もなく言ってしまえば、中間層たる人びとが一体「富裕層への希望」と「貧困層への絶望」一体どちらによりシンパシーを感じるのか? というお話でもあります。
資本主義における成功者たちという富裕層を希望をもって見ている限り、その富裕層の莫大な収入によって広がる経済格差は許容されるし、逆に貧困層の絶望をあまりにも身近で他人事とはとても思えない、という風に感じるようになると資本主義のもう一つの帰結である不平等=経済格差を修正しようと振る舞うようになる。


この資本主義における勝者と敗者の不平等というのは、こうした民主主義のバランスの上で調整され均衡することでどうにかこうにか最低限は維持されているのです。上への希望が強ければそうした政策は支持されるし、逆に下への絶望が強ければ必然的にそうした政策は支持される。それは最善ではないにしろ、次善としては良くできていると言っていいでしょう。特に先進国では――もちろんその天秤の揺り戻しの過程において多少の騒乱が起こること事態はあるものの――概ねかなり安定したシステムと言っていい。
ただ、このシステムが先進国などでは上手くいく一方で、しかしそうではない国で上手くいかない途上国も多く存在している。そんな両者を分かつのは、その資本主義による勝者となるための「ルール」が基本的には公正なモノであるかどうか、ということに尽きます。その莫大な報酬を得たのが自身の能力や幸運によらない「不正なモノ」であると見られるようになると、この資本主義が必然的にもたら不平等を適切な範囲に収めようとするバランス感覚は、民主的プロセスを経たとしても機能しなくなっていく。だからこそ、ウォール街などで(失策を犯したにも関わらず得られる)途方もない役員報酬などはそれはもう批判されまくる一方で、例えば最近移籍したことで年棒が20億オーバーな楽天の田中選手のそれは彼の能力による「正当な」報酬であるとも見られる。
問題はその金額の大小なんかではないのです。重要なのは、それが正当な報酬であると感じられるかどうか。




不平等が民主主義の脅威となる分水嶺というのは、中間層の人びとが上の富裕層を見ても「彼らは悪どいやり方で報酬を得ている」としか思わなくなり、同時に下の貧困層を見てもそれはただの敗者ではなく「悪意を持って抑圧されている人びと」という風に見るようになる所にあるのです。そして多くの場合で腐敗や汚職が蔓延する国家ではその道を辿ることになる。かくしていつしかそうした不満は民主主義に対する『造反有理』という地平に行き着くのです。
つまり民主的プロセスが破壊されるのは、いつだってこうした価値観が支配的になった瞬間なのです。最早不公正の結果として上への希望も持てず、故に相対的に失うモノが少ない彼らは全てをぶっこわそうとする――そんな人びとが多数派になった瞬間にこそ。

 報告書は「富裕層が民主的なプロセスを損ない、自分たちの利益に資する政策を推進し、他のすべての人々を犠牲にしている」状態を支えている不平等の拡大の「破滅的な影響」を露わにしている。

「民主主義への脅威は富裕層」、国際NGOが警告 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

その意味で、現在の富裕層の「民主的プロセス」の悪用が破滅的な結果を招くかというと、これまで最低限安定してきた(日本を含む)先進民主国家においては、個人的には結構怪しいよなぁと懐疑的ではあるんですよね。少なくとも、大多数の中間層が自暴自棄になるほど、現状の資本主義におけるルールが不公正にできてるわけでもない。
むしろ引用先のような事実は結果として富裕層に有利な政策が支持が、黙認という形を含めて大多数の中間層に支持されているという事実の証明でもあるわけで。もしかしたら自分もその一員あるいは予備軍になれるかもしれない、という(実現するかはまた別問題な)希望は、まだ少なからず残っている。


まぁこうした構図が意味するのは、富裕層の支持であると同時に、貧困層への無関心を意味してもいるわけで。むしろこっちのが大きいような気がします。特に日本でも少し前にあった生活保護への批判などを見ると、そうした傾向があるのは間違いないでしょう。個人的に思うのは、こうやって「稼ぎまくる富裕層」にだけあまりにも扇情的に矛先を向けることが結果として、その行為への無関心にも繋がっているという皮肉な構図ではないかと思うんですよね。
悪いのはアイツらで、一般人たる俺たちは知ったことじゃない、なんて。
本来であれば(まったく人事ではないからこそ)社会全体で考えなければいけないセーフティネットなどの社会保障が、一部富裕層を悪者にし責任を追及することだけで満足され、同時にまたそんな富裕層もそうやって活動をアピールすることで自身の特権の免罪符をも得る構図になっているんじゃないかと思うんですよね。本来であればそうやって中間層の広範な支持を集めることこそが、貧困層を救う突破口となるはずなのに、あまりにも強欲な富裕層にだけ責任を押しつけるものだから、上述したような本来あったはずの民主主義のバランス感覚が機能しなくなっている。


こうした構図をして「民主主義への脅威は富裕層」というのならば、まぁ確かにそれは頷ける所ではあるんですが。それでも先日の日記で書いたように、富裕層が稼ぎまくるからというよりは、あまりにも貧困層が稼げな過ぎるという方がずっと危険性は大きいと思うんですけど。
でも解りやすい『敵』を求めて、そんな富裕層ばかりに目がいってしまう私たち。

みなさんはいかがお考えでしょうか?