『善意』という動機の限界

善意と安全保障(経済的利益)という動機の違いがもたらす『覚悟』の差。


またも茶番に終わったシリア和平会議 アサド政権による「虐殺」の放置を黙認しただけ(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)
まぁ結局のところ、こういうお話になってしまうのだろうなぁと。国際社会=欧米の「やる気」の無さというものの一歩先にあるのは、つまり「覚悟のなさ」という意味でもあるんですよね。単純な人道的理由=善意だけでは、彼らは行動するほどの覚悟をもつことが結局できなかった。
一方でロシアやイランはそうではない。そんな人道的理由などを動機としない、彼らにはそれはもう確固たる『覚悟』があってそこに関わっているわけで。まさに彼らはアサドさんら政権側につく人々の苦難を助けようとか可哀想だからとかそういう理由で支援しているわけでは「ないからこそ」こうして効果的な支援に成功した。

 独裁の維持のために今日も住民に対する無差別砲爆撃を続けているアサド独裁政権は、いわば「人質を殺害し続けている凶悪犯」のようなものだ。現状では武器レベルが圧倒的優位にあるアサド政権が内戦で打倒される可能性はほとんとないが、少なくともそんな「凶悪犯」に何らかの妥協を求めるなら、イスラム過激派以外の地元反体制派諸部隊の武装を強化するとともに、国際社会がそれなりの軍事的圧力をかけることが不可欠だ。

 残念ながら、夢のような平和的解決を語るだけでは、人々は救われない。

またも茶番に終わったシリア和平会議 アサド政権による「虐殺」の放置を黙認しただけ(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)

その意味で、もう人道的支援だとか平和などを理由にする時点で(反政権側支援の行動の裏付けとなる)覚悟としては相手に圧倒的に負けているんですよね。もちろんそうした善意自体を否定できるわけでは決してありません。しかし、それでも、そんなカジュアルな関心というのは往々にして、人的コストや資金的なコストの負担が増加するとあっさりと覆されてしまい、本気の覚悟をもった動機とぶつかるとこうして覚悟の差が露呈して、まぁ見事に負けてしまう。
こうした構造は21世紀の今後、どうしようもなく増えていくのだろうなぁと。


シリアに決定的な国益――安全保障なり経済的利益があればよかったのにね。しかし、幸か不幸か、そんなものありはしなかった。故に善意に頼る以外になくなってしまった、現在進行形で止まらないシリアの地獄を見過ごせない人びと。
そして心底救えないお話なのは、少なくない国際社会の人々が、善意という動機以外でシリアに関わる羽目にならなくて実のところホッとしている、という事実だったりするんじゃないかと思います。


がんばれシリア。