答えは誰かがきっと運んでくれると信じてるね

大人の階段登り中。


「3・11」3周年、分裂が固定化しつつあるエネルギー問題 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
「みんなで節電すればできるんだ!」から三年経って、「もうがんばらなくていいよね」な四年目。

 2014年2月の都知事選も「脱原発」が争点になりかけたわけですが、結果は曖昧なままに終わりました。脱原発のエネルギーは、党派を超えたものにはならなかったのでしょうし、雪という悪天候を超えて有権者を投票所に向かわせるパワーにはならなかったのです。というと少々言い過ぎで、「脱原発に関する判断をするという有権者へのムリな期待」が雪に勝てなかった、あるいは組織票には勝てなかったという感じでしょうか。

 いずれにしても、エネルギー政策に関しては、痛々しい分裂と奇妙な均衡が固定化しつつある、そんな印象を持ちます。

「3・11」3周年、分裂が固定化しつつあるエネルギー問題 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

分裂と均衡の固定化へ。まぁ概ね同意できるお話ではあるかなぁと。私たちは結局前にも後ろにも進めなかった。


あの『3・11』という大きな出来事は、それはもう私たちへ「日本は何かを変えられるのか?」という問題を、個人にしろ社会集団にしろ、多かれ少なかれ突きつけたわけですよね。その大きな一つが原子力をめぐる是非であるし、また都市防災の議論でもある。その中で議論が交わされることはいいんですよ。リベラルな民主主義社会の間では、むしろ当然の過程ですらある。
ただまぁそうやって議論することと、そこで答えを出せるかどうかはやっぱり別問題なわけで。
最近も津波対策の防壁の高さをめぐっての議論――あまりにも高すぎると海面自体が視界から消えて早期警戒できない――が割れていたように、原発のそれもこうして互いの政治的意見が真っ二つに割れてそれぞれ妥協できない現状。こうした問題にどうにかこうにか答えを見つけ出していくのが本来の政治の役割であるはずですけども、こうして分裂は固定化され、まぁみんなあきらメロンな所に辿りついてしまった。それはまぁ確かに日本的な風景ではあるのでしょう。よく解らないからなぁなぁでいこうぜ的な風景。
おそらく、次にやってくるのは震災以前にあった古き良き『合理的無関心』の再来でしょう。とりあえず震災を機に(意見の激しく割れる)議論を初めてはみたものの、答えが出ないから後は投げっぱなし。よく解らないから誰か偉い人か暇な人がやってくれるだろう、という諦めと無関心の極地へ。
「そうやって関心が薄れるのを待っているのだ」なんて批判的に言う人が居ますけども、おそらくその通りで、しかし大事なのはそれが別に陰謀論的に既得権益者たちが悪意をもって成しているという理由だけじゃないんですよね。
むしろ、自身の与する主張を声高に叫ぶだけ叫んで後は知らない、分裂するだけ分裂して後は投げっぱなし、そうした民主的(笑)な議論の成れ果てでもあるんですよ。


確かに私たちはあの『3・11』を機に、色々なことをもう一度再考するようになった。その切っ掛けとなったのは間違いなのです。
ただ、そこで終わってしまっただけ。議論を始めてみたものの、結局は何らかの答えを出せないまま、なんとなく関心が希薄になっていくのを生暖かく見つめているだけ。後は偉い人がどうにかするだろう、と。まぁやっぱりいつもの日本社会というと悲しいまでにその通りなんですけど。そして緩い結論として「過ちは繰り返しませんから」なんてそれっぽいことを言うだけ。


(政治的難問の)答えは誰かがきっと運んでくれると信じてるね。少女だったといつの日か想う時が来るのか。