ネットは広大なので情報を取捨選択するしかないわ、の帰結

見たいものを見る私たち。



インターネットとアメリカ政治「インターネットが推し進めるアメリカの政治的分極化」(前嶋和弘) | 現代アメリカ(2007-2015) | 東京財団政策研究所
インターネットによる政治的分極化の加速について。まぁ結構前から言われていたお話ではありますよね。そんな分極化がアメリカの政治的分裂の一助となってしまっている現状について。

 ここで注意しなければならないのが、インターネット上での情報取得には、「自分にとって好ましい情報を優先的に得ようとする」という選択的接触が顕著である点だ。「選択的接触」は古典的なメディア理論であり、テレビ番組、新聞、雑誌、ラジオ番組など既存のメディアでも明らかになっている。各種研究によると、ソーシャルメディアの利用についても「選択的接触」の傾向が顕著であることが明らかになっている。

 「選択的接触」とは自分にとって都合のよい意見は採用し、自分と異なる意見に対しては徹底的に遠ざけることである。自分のイデオロギーに近いオンラインサイトは積極的に参照し、リツイートなどの形でさらに他の人に伝えていくが、自分の考えとは相いれないものについては、全くアクセスしようと思わない。「オバマケア」嫌いは徹底して保守の政治情報に固執するし、リベラル派は保守の情報を敵視するというわけである。

 「選択的接触」の傾向がサイバースペースでは特に目立っており、「保守」と「リベラル」との二つの世論は決して交わらず、それぞれが別個に加速度に増殖している。つまり、インターネットが「政治的分極化」を推し進めてしまっている。

インターネットとアメリカ政治「インターネットが推し進めるアメリカの政治的分極化」(前嶋和弘) | 現代アメリカ(2007-2015) | 東京財団政策研究所

かくしてインターネットでは、対立の先鋭化と蛸壺化がより加速する。ロバート・パットナム先生なんかはこうした関係性はむしろ『社会関係資本ソーシャルキャピタル』を劣化させかねない、と警告していたりもするんですよね。ネット上での匿名による議論はどうやっても熟議にはならない、なんて。お互いに陣営の逆サイドにいる人々を既知外として認識し切断操作することで、両者の溝は果てしなく広がっていく。
政権に批判的な人はその失態ばかり見ようとするし、逆に好意的な人は失態は軽視する。
鶏と卵な話になってしまいますけども、そうした読者層の声にこたえる形で、ネット上だけでなく既存のマスコミもまたそうした方向へ舵を切りつつある。そしてその当然の帰結として、全体の流れとしての「マスコミ不信」は進んでいくと。だからあちらのマスコミ不信って日本のそれよりもずっと進んでいるんですよね。
我らが日本でも既に「○○新聞のいうことだから」というのは党派や左右を問わずに既にテンプレな揶揄にさえなっているわけで。それでも、幸か不幸かアメリカのような決定的な二大政党制に至っていないためかそこまでの分裂状況が表面化しているわけではないのですが、そうした土壌は既に完成している、というのは概ね間違っていないでしょう。ただそれを担うだけの政治勢力が(自民党以外に)存在しないだけ。




ともあれ、ただまぁ偏食だけが悪いのかというとやっぱりそうでもありませんよね。実際(晒す側からではない)「イヤなら見ない」という受け手側の選択というのは、精神的安定を保つため効果的なやり方ではあるのです。気持ちいい情報だけ、都合の悪い話は聞きたくないから、というと身も蓋もありませんけども、それでもそれは人間として自然の流れではある。
私たちはそうやって認識する情報の取捨選択を繰り返すからこそ、膨大な情報処理をフリーズせずに日々過ごせてもいるわけで。その無意識の判断基準というのは論理的である方がむしろ少なくて、大抵の場合で、個人の趣味嗜好による素朴で本能的な判断基準で情報の価値の多寡を決定している。
しかし、情報が無限に溢れるネット社会において、だからこそ、そんなやり方によって収集した情報の偏りや先鋭化が加速することになる。私たちは情報が無限にあればあるほど、ほとんど本能として好きな情報ばかりを追ってしまうようになる。


結局、インターネットによる政治的分極化というのは、こういう構造があるからなのだと思います。人間の動物としての限界。
いやぁ救えないお話ですよね。