まだ地球温暖化を論ずるレベルに達していない人類の悲劇

なにもかも貧乏が悪い。



(地球温暖化対策なんていう)贅沢は敵だ - maukitiの日記
一昨日の日記の続きのようなお話。

 最貧国を含む多くの途上国では、貧困からの脱失が優先し温暖化対策のために二酸化炭素排出量の削減を図ることは難しい。途上国の立場ははっきりしている。「温暖化を引き起こしたのは産業革命以降二酸化炭素を大量に排出した先進国だ。途上国の温室効果ガスの排出量は、今後増加するが、それは近代化のためには仕方がない」ということだ。
 以前、気候変動に関する会議で、先進国と途上国が将来の排出責任について議論を行っている最中に、途上国代表の一人が「我々に貧乏のまま我慢しろというのか」と非公式に発言した。これが途上国の偽らざる気持ちだろう。温暖化か貧困対策かの選択肢では優先度は貧困のリスクということだ。

温暖化と貧困 リスクが高いのはどちら? 先進国も途上国も抱える問題 WEDGE Infinity(ウェッジ)

さて、そんな彼らを責めることができるかというと、まったくそんなことありませんよね。
つまり、私たち先進国や、あるいは海面上昇で真っ先に被害を受けかねない一部沿岸国多くの人たちを除けば、そんな『地球温暖化』のような問題というのは悲しいことに、まったく、全然、優先度は高くないわけであります。その意味で言えば、今尚、世界で最も「緊急度の高い」環境問題といえば『水問題』であるでしょう。おそらく、綺麗な水にアクセスできないために下痢などで衰弱し死んでいく人々は年間数百万人を越え、その為に重病になるのは数億人をくだらない。更に言えば、その犠牲者の多くはまだ幼い子供たちであることは間違いないでしょう。あるいは大気汚染で苦しむ人も、桁が違うレベルで存在する。
そんな現在進行形である子供の苦しみに直面する彼らに「それよりも将来世代の為に地球温暖化対策にもっと関心を持つべきだ」なんて、先進国に住む私が上から目線であるべき優先順位について偉そうに言うことなんて絶対にできない。



ここで同じような風景があると思うのは、「放射脳」とも一部揶揄される反原発の人たちの振る舞いであります。

「僕が一番やりたいと思っているのは、あるいはアクティビストたちにやってほしいと思っているのは、一番困っている人たち、たとえば基地問題なら沖縄の人、原発問題なら福島の人や原発を抱える地方の人たちとタッグを組むことです。現実に、3年経った今も福島では14万人もの人が避難して困っているわけで、その人たちがまず声を上げるべきだし、上げられない事情があるなら僕らが手助けをする。その強力が活動の一番のドライビングエンジンになるはずです。」

「未来ですか?あと20年も持たないんじゃないですか、この世界は」—坂本龍一さんが今考えていること : BIG ISSUE ONLINE

その意味で、坂本さんが仰ることにはそれなりに正しかったりするんですよね。
まぁぶっちゃけこの通りに振る舞おうとすれば――まさに圧倒的に多数派の世界各国がやろうとしているように――当面の間は、少なくともあと1〜2世代の間は世界中に原発をたくさん立てて「電気すら無くて」日常生活に苦しむ人たちを助けることが優先されることになりかねないわけですけど。
確かに、その放射能の恐怖が恐ろしいモノであるというのには理解できます。しかし、ここでその危険性を叫ぶ人たちが決定的に誤解し、そして傲慢であるのは、その恐怖が誰にでも普遍的に通用すると何故か確信している点にあるわけですよね。彼らには何が正しくて何が間違っているのか、その自らの絶対基準が正しいと確信している。
――そんなことあるはずないのに。
結局のところ、その個人の趣味嗜好と同じく、個人が恐怖心を抱くものだって同じなんですよ。環境問題についての関心だって似たような次元のお話でしかないのです。その関心は、身も蓋もなく言えば個人の『所得』の多寡が決める。
だからこそ、地球温暖化問題が真剣に論じられる段階にはまだないし、原子力発電はチェルノブイリやスリーマイルや福島のそれがあったとしても、より直近の問題解決――より安く安定した電気――のために利用され続ける。それを短慮だと断じ罵るのは、ぶっちゃけ傲慢でしかないのです。自身がそういうことを心配する立場にないからといって、まったく環境の違う他者にまでそれを押しつけようとする人々。
それは実のところ、唯一絶対の正義を確信し、無邪気にその教義を世界全体に広めようとする――アメリカナイズと批判される人たちとそっくりそのまま写し鏡のような姿であります。


そりゃ綺麗な水を飲み、綺麗な空気を吸い、来年の生活に悩まなくて済む程度の所得があれば、そういう心配をするのは別におかしくはないでしょう。でも、21世紀になっても尚、「そうではない」人たちでこの素晴らしき現代社会は溢れている。
その恐怖を覚えるモノの関心の度合いについて。
たいていの場合、それはその個人が置かれた状況や環境こそが決める、という相対的なことでしかない――ということを解っていない、幸せな人たち。彼らがある種の宗教がかって見えるのは当然なんですよね。彼らは信仰深い人たちが神の摂理の無謬さを確信しているように、何に恐怖を覚えるべきか、その判断基準の無謬さを確信している。


今日び宗教ですらそんな押しつけをすることは滅多にないにもかかわらず、彼らはそこに唯一絶対の真理があるような傲慢さで、その「関心の度合いがなっていない」と押し付ける。
まぁ確かに信じられるモノがあるというのは幸せなことではありますよね。