はじめに潜在価格ありき、とベッカーは言った

経済学的アプローチを知った私たちによる人間原理のようななにか。


経済学と道徳 - himaginary’s diary
まぁ難しいお話ではありますよね。道徳・正義・善・美徳といったものと経済学的アプローチとの関わりについて。このお話については、マイケル・サンデル先生の『それをお金で買いますか』辺りが面白かったなぁと。以下その辺からの適当なお話。

経済学者は道徳問題を避けたがる。彼らは、自分たちはトレードオフインセンティブや相互作用を研究しているのであり、価値判断は政治プロセスや社会に任せる、と言いたがる。
しかし道徳判断は経済学を避けはしない。

経済学と道徳 - himaginary’s diary

まぁ経済学者たちがこのように考えた一方で、しかしその道徳や正義に関する(経済学上の価値による)判断基準というのは、相対主義という袋小路に陥っていた人々の光明ともなってしまったのでしょう。実際にはそんなことなかったにも関わらず、そうした経済学的アプローチは相対主義に見合う中立的なものであろうという素朴で無邪気な思いこみ故に、それはものすごい勢いで浸透した。
いくら経済学者が道徳問題を避けようと思っても、しかし私たちに日常生活にそんな経済学的アプローチはほとんどどこでも入り込んでしまっている。
是非はともかくとして、ゲイリー・ベッカー先生のお話がものすごい面白いと思うのはこういう所にあるわけで。『人間行動への経済学的アプローチ』という発見。単純に市場と付き合うときだけでなく、人々はあらゆる領域でコストと効用を比較し常にそれが最大となる(と信じている)選択肢を選んでいるのだ、なんて。


そして、そんな風に「市場的価値」を知った上で道徳的に行動することは、何も知らないままに行動していた時とは必ず一線を画すことになる。
一度ついてしまった明示的な『価格』というのは、その値段が高低することはあっても、しかし価格そのものが無かった頃には戻れない。幾ら自分だけはそんな価格には惑わされないと決心してみても、その数字はどこかで必ず頭の中をちらついてしまうし、そもそも自分以外の誰かたちがそう振る舞った時点で社会の趨勢は決まってしまう。
一度その考え方があることに気づいてしまった私たちは、もうそれ以前の世界の見方とはまったく違ってしまった。
商品化効果と呼ばれる、不可逆の変化。


その意味で、私たちは「知恵の実」をかじってしまったんだと思うんです。有形物だけではなく、それまで難しかった正義や善や美徳といった行為の価値もまた比較し計算できることを。潜在価格という身も蓋もない物差しによって。

  • ダイエットすることは○万円相当の善
  • 献血することは○万円相当の善
  • ドナーになることは○万円相当の善
  • ゴミのポイ捨てをしないことは○円相当の善
  • ボランティアに参加することは時給○千円相当の善
  • 結婚することの費用と効用
  • 出産することの費用と効用
  • 離婚することの費用と効用
  • ある友人と付き合うことの費用と効用

私たちは善意や正義の度合いを金で換算されることにしばしば反感覚えるものの、しかしそれを完全に無視することもできない。だって知らなかった頃にはもう戻れないから。ついでに、確かにそれは不適切なのかもしれないけれど、だからといって別の解決策があるわけでもないから。



それを進歩と呼ぶべきか、退化と呼ぶべきか。