なぜ民主主義は毎度毎度死ぬのか

後ろに進んでいるのか前に進んでいるかもわからないから。


【寄稿】民主主義は今も「歴史の終わり」=フランシス・フクヤマ氏 - WSJ
ということでフクヤマ先生の「歴史の終わり」から25年経った現在についてのお話であります。ここ最近起きているアラブの春からウクライナやロシアや中国やインドなどの出来事を俯瞰した時に見える、リベラルな民主主義政治の未来について。個人的にはまぁその本にものすごく影響を受け、尚も価値観(ついでにこの日記)の内の大きな部分を占めているので、とっても納得できるお話ではあります。言い古されたフレーズで言えば、もし、もっと若い頃にこれを読んでいればそっちの方面に進んでいたりしたのかなぁと思うくらいには。


ともあれ、リンク先は長文なので読む人も少なそうですが、概ね論旨としては次の三点ではないかと思います。

  • 民主主義政治は今も尚「約束された勝利の制度」であり「歴史の終わり」であり目指すべき「ゴール」である。
  • 一方で上りエスカレーターの存在がある「でもその道は決して平坦で簡単なものではない。あるいはゴールがあることとそれを短期的に望むことはイコールではない」
  • でも下りエスカレーターの存在もある「またゴールにたどり着いたと思っても、それを永遠に維持できるかどうかはまた別問題である」


前二点はアラブの春やら、オレンジ革命とその後やら、タイのクーデターやら、中国の民主化運動やら等々で散々書いてきたのでともかくとして。ただ、やっぱり最後の点はいろいろと考えさせられるお話だよなぁと。つまり、私たちが望むリベラルな民主主義制度というゴールは、必ずしもどこか明確な一地点というわけではない。それは時代とともに常に変化しているし、まさに権力が必ず腐敗するように一度辿りついても逆方向へ流されることだってある。でもそれと目指すべきゴールが存在しないということはやっぱり別問題なんですよね。

 25年前に私が取り上げなかった2つ目の問題は、政治制度の衰退、つまり下りエスカレーターの問題である。全ての制度は長期的には衰退する可能性がある。多くの場合、制度は厳格で保守的である。1つの時代の要請に応えた規則でも、外部状況が変化すれば必ずしも正しいとは言えなくなる。

 さらに、個人に左右されないように設計されている現代の制度でも、時間の経過と共に、強力な政治家の手中に落ちることがある。あらゆる政治システムにおいて、人間には家族や友人に報いようとする生まれつきの傾向がある。その結果、自由は特権に変質する。これは権威主義システムだけでなく、民主主義国家においても真実である(現在の米国の税法を見てほしい)。

【寄稿】民主主義は今も「歴史の終わり」=フランシス・フクヤマ氏 - WSJ

(決して完全とはいえないものの)それなりに成熟した民主主義政治が確立された社会に生きる私たちにとって、難しいのはそんな自由な民主主義制度を維持するにあたって「必要な変化」と「腐敗の度合い」をどう区別するかということなのだと思います。どちらも現状を打破しようとする方向では間違いないものの、しかしそうした変化は必ず現状打破と現状維持で賛否両論で分かれることになる。
熱心な推進者はそれを進歩だと誉め讃えるし、逆に反対者はそれを腐敗だと非難する。
たとえば最近盛り上がっているLGBTの扱いについて、これまでそうした意識が(大きな流れとして)存在しなかったことは確実でしょう。しかし現在はそうではない。 
――では、この流れは「必要な変化か?」それとも「腐敗の一種なのか?」 もし必要である場合、それは反対意見をどこまで無視することが許されるのか?
あるいは憲法改正することは自由な民主主義制度を維持する為に必要か? 秘密保護法は? 最低賃金引き上げは? 移民問題は? 選挙制度改革は? 増税は? 減税は?
そうした変化は直接的間接的問わず影響があるかもしれないし、あるいはないかもしれないし、無視できるほどの影響かもしれないし、そうではないかもしれない。その挙げ句、私たちは「正解」を常に選択できるわけでもない。


かくしてリベラルな民主主義政治を目指す健気な試みは一進一退を繰り返す。
ある方向転換を民主主義政治にとって進歩と呼ぶべきか、あるいは退化と呼ぶべきか。


「ここ数年で一番民主主義が死んでる」 - maukitiの日記
その副作用として、そうした必要な「変化」に際して、毎年のように民主主義が死ぬことになるんですよね。その変化に反対する人はなんでもそれを腐敗や後退であるとレッテルを貼って死んだことにする。変化するという本質について、かなりの事例でまさに擁護も非難でもできてしまう故に、それをどう見るかは個人のポジションによって変化する。そりゃ毎年のように民主主義は死んでしまいますよね。
目指すべきゴールは「自由な民主主義政治」であると全体像を一言で述べることはできても、しかしその詳細は曖昧で確固とした答えは存在しないし、常に変化を続けている。だからこそ私たちもまたその変化に置いていかれないように、あるいはその権力の腐敗を避けるために風通しをよくすることを怠ってはならない。
決して止まってはならず、走り続けなければならない民主主義政治に生きる私たち。


いやぁリベラルな民主主義を維持し続けるのも大変ですよね。
「別に一番じゃなくてもいいんじゃないですか?」とか言い放った人の気持ちが少し解ります。実際、21世紀の人類世界を見渡しても、そう考えている人は実は多数派とさえ言えるかもしれない。