「もっとお洒落で真似したくなるかわいい服をアニメキャラに着せよう!」→「ただのコスプレだこれ!」

次元の壁は厚すぎると思います。


http://www.fashionsnap.com/the-posts/2014-07-15/anime/
アニメとファッション論。

何故アニメのファッションはダサいのか。
アニメ制作に関しては全く知識が無いので想像になってしまいますが、
アニメの制作現場に於いてファッションの重要性が認められてないからなのではないでしょうか。
恐らくスタッフにファッションに関心がある人が少なく
衣装の決定もなんとなくの雰囲気で決められているような気がします。

http://www.fashionsnap.com/the-posts/2014-07-15/anime/

まぁそんなものなのかもしれませんよね。以下「なぜアニメの登場人物たちの多くはもっさいの?」について考えた適当なお話。



その1「制作側に関心がない」

まぁ上記で言及されているように、ありそうなお話ではあります。ただの無関心さだけでなく、作画的な事情――シンプルでお洒落な服を書くのはずっと難しい――も含め、そもそもそこに割くだけのリソースがないという身も蓋もない悲しい事情もありそうですけど。

その2「記号学から考えて敢えて凡庸にしている」

なぜか原文ではあまり言及されていませんでしたけど、「だっさい」のと「凡庸」であることは区別するべきですよね。例えばお洒落キャラを設定しておきながらもっさいのは論外ではありますけれども、フィクションにおいて敢えて地味で凡庸にしておくことはそれなりに意味があるわけで。
視覚文化において見た目はまぁ「口ほどにモノを言う」ものでもあります。だから黎明期の映画業界なんかでは『服装』というのは外見だけなく内面のキャラクター描写でもかなり重要視されていました。ところが、そんな『服装』にあまり隠喩的な意味を持たせ過ぎてしまうと、逆にフィクションの登場人物のキャラクター性が平坦なテンプレ化――古典的な「悪人は黒系」「善人は白系」という風に――してしまうんですよね。だからこそ、物語に緊張感や繊細な起伏を持たせるためにも、徐々にフィクションの登場人物の服装にはそこまで重要な意味付けがされなくなっていったのであります。この辺は近代以降からの人びとのファッションの持つ文化的社会学的な記号としての意味が徐々に薄れ、ただ見た目を飾るだけという要素に変化していった構図と同じなのかもしれません。
アニメの登場人物もその意味で、敢えて凡庸で中立的な服を着せることで、キャラクターの内面へ過度の意味付けが付与されることを避けているのかもしれない。

その3「登場人物に憧れ模倣するプロセスって、映画やドラマはともかくアニメでやるとコスプレか厨二病紙一重じゃね?」

例えばファッション発信の極北の一つであるハリウッドの成功戦略って、消費文化=エンターテインメント産業=自己構築(登場人物の模倣)という三位一体にあって、それによって映画を流行スタイルの発信地とすることに成功したわけです。登場人物に憧れ、観客はそれを現実で模倣する。
でもまぁそれって女性は女性の格好に憧れて模倣するし、男性は男性のそれを模倣するのがほとんどのお話ですよね。萌えアニメ見て可愛い女の子のスタイルを模倣する男性視聴者は……、いやまぁ偶にそういうレベルの高い変態が居たりしますけども、どう見てもそこで模倣対象にはならないよなぁと。もちろん全く居ないわけじゃありませんけども、そもそも主要とするターゲット層が違う。
――ていうか現状でそのプロセスが現実化しているのってそのまんまコスプレですよね。あるいは衣服だけにとどまらず振る舞いまで模倣しちゃうと「しずまれ俺の右腕ぇ!!」な厨二病紙一重に。
二次元で三次元を模倣するのはやっぱりちょっと無理があるよなぁと。次元の壁は厚いぜ。今でも女優やモデルが着ているのを自分が着たらガッカリだった、というのはものすごいあるある話でもあるので、そこを上手く橋渡しするだけのプロでも居ればあるいは。
もちろんエンタメとしてのアニメで登場人物をお洒落にすることで多くの視聴者の目を引くことはできるでしょうけど、そこから消費文化に結びつき更に視聴者の自己構築(模倣)に至るかと言うとちょっと疑問です。ぶっちゃけそれで賑わうのはコスプレ広場だけなんじゃないかと。