朝日新聞の『一部誤報』が生み出した鬼子たち

結局それは朝日新聞にとって総体としては成功譚なの? それとも汚点であり失敗譚なの?



「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断:朝日新聞デジタル
「挺身隊」との混同 当時は研究が乏しく同一視:朝日新聞デジタル
強制連行 自由を奪われた強制性あった:朝日新聞デジタル
なんだかものすごく盛り上がってる朝日新聞の32年越しの宣言であります。まぁやっぱり気になるのは「何故今なのか」というタイミングの方かなぁと。今回の件は大勢に影響ないと擁護することはもちろんできますが、しかし、それを言えば言うほど「ならば何故30年以上たった今それを言うのか」という朝日新聞の不誠実が露わにもなってしまうわけで。これまで通り無かったことにしておけばよかったのにね。なのに何故今になって――ほんとうに今更、それを言うのか。
笑えるお話であると同時に悲しくなるのは、例の政府「河野談話は政治的談合の賜物だったよ」というぶっちゃけ報告の『後』になってこうしたお話が出てくる所かなぁと。その一点において、ザ・泥縄という感じはあります。


ともあれ、基本的にこの一部の瑕疵を認めることと慰安婦全体の問題は別である、というのは概ね正しいお話でしょう。それとこれとは話は別で、混同する方が間違っている、と。
――でも、結果的に見れば今回のお話で一番罪深いのは「朝日の主張(の一部)が間違っているから全体も怪しいと考える人たち」を大量に生み出した要因の一つこそ、今回の朝日新聞のような愉快で杜撰な『誤用』だったわけでありますよね。目的さえ正しければ細かいディティールの真偽なんてどうでもいい、なんて。結果としてそれは見事に大きな話題となったと同時に、当然即座に反発されるネタを使ったことで無駄に敵を増やしまくり、そんな誤用誤認と「同レベルの」反対者も生み出した。結果としてスタート地点となるべき土台が傾いていた以上、どこまで議論を積み上げてもそれはどこか歪んでいた。おそらく、今回の件で更にそうした否定派勢いづいてしまうでしょう。
そうやって不毛な議論に陥れば陥るほど、彼らの正当性は強調されるわけだしね。なんて見事な炎上商法。30年黙っていた甲斐があって良かったね。
そして本筋となるべき議論は置いていかれる。
例えばイエロージャーナリズムな週刊誌のような所がそれをやるのは――もちろんそれはそれで議論あるとして――見逃せても、少なくとも(自称)国を代表する新聞であるはずの最大手の新聞がそんな杜撰なことをやるのは、まぁどうしても生暖かい気持ちになってしまうよなぁと。いや、日本の新聞なんてどこもそんなものだろうと冷笑してしまうと身も蓋もありませんけど。
おそらく、少なくとも短期的にはその『誤用』は利益をあげたのでしょう。でもまぁそれが中長期となると、現代社会で最も重用視すべき信用を犠牲にしてまで得るべきものだったのかというとやっぱり疑問ですよね。あるいはジャーナリズムの使命としてやったと自己弁護できるかもしれない。こうしてウソを使って煽ってきたことは、どう見てもジャーナリズムのそれとはかけ離れたところにあるわけですけど。ジャーナリストと言うよりは扇動家、もしくは前時代風に革命家にジョブチェンジしちゃえばいいのにね。
朝日新聞という存在がジャーナリストとしての『信用』と引き替えに得たもの、失ったもの、そして生み出したもの。


さておき、このお話を見ていてどうしても思い出すのは、昨今の反原発運動の人たちであります。彼らもまたこの朝日新聞とほぼ同じ所に立っている。率直に言えばそれはそれで正当性と説得力があるのだから下手にバカなことを言うのをやめればいいのに、しかし彼らは拙速に成果を求め、あるいはそれだけじゃ満足できずに、余計に事態を大きく見せようと大きなことを言っては炎上させ、同レベルな反対派を増やしていく。まさに、そんな風にウソをついて無駄に敵を作ったのが今回の朝日新聞のようなやり方なのにね。
いや、でも、もしかしたら彼らにとってはこのやり方――多少ウソをついてでも炎上させればこっちのものだと考えていて、むしろ成功体験なのかもしれない。もしかして、よく愉快な捨て台詞扱いされる「結果的に議論を呼び起こしたので成功だ」というアレと同じ地平に立っているのかもしれない。
なんてハラショーなお話。



結局これはそんな副作用込みで成功譚なの? それとも失敗譚なの?
その点こそ、読者にとって重要な「朝日新聞は次も同じことをやるのか?」という判断基準になるはずなのにね。