戦争には勝ったが、栄光はなかった

238年前の生まれた時から、そして100年前の第一次大戦の時も、そして2014年の今も、きっと建国250周年の時も同じことを言ってるだろうアメリカ。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41464
そういえば先日*1のドイツさんちに続き、アメリカさんちでも第一次大戦の関心は低いそうで。
まぁぶっちゃけ当事者ではないので、そんなものかなぁと思いますけど。

 第1次大戦後の数十年間で米国の外交問題は非常に複雑なものになったため、当時のウッドロー・ウィルソン大統領が言ったように世界を「民主主義の国々にとって安全なものにする」ことを願って前線の塹壕に向かった比較的少数の兵士たちのことを、今日の米国人はほとんど認識していないのだ。

 連邦議会により設置された第1次大戦百周年委員会のロバート・ダレッサンドロ委員長はこう語る。「難しいのは、第1次大戦はかなり忘れられていることだ。明らかに、米国がはるかに大きな役目を担った第2次大戦の陰に隠れてしまっている」

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41464

ただそうは言っても、アメリカにとって第一次大戦というのは、その国家観そのもに関わる重要すぎるテーマでもあるんですよね。すべてを肯定も、すべてを否定もできない。故に――例えばヨーロッパのように――そう簡単にどういうものであったかなんて総括できない、というのは理解できるお話ではあります。
つまり、アメリ外交政策の歴史から見ると第一次大戦はどのようにして「始まったか」ではなく、どのようにして「終わったか」こそが重要なのです。そしてその終わり方というのは、建国から第一次大戦というだけでなく、テロ戦争後の現在世界まで続いている議論ほとんどそのままでもある。まさに建国時代から続くアメリ外交政策の議論の根幹。その延長線上に第一次大戦はあるし、そしてそれは現代までも同じく同一線上にある。冷戦時代のような状況はむしろ例外で、現状のようなジレンマ――介入するのか無視するのか――こそアメリ外交政策の本質なのです。
――アメリカの世界に対する関与の、範囲と性質。
当事者ではなく、余所から途中参戦したアメリカだからこそ抱えるジレンマ。海外の紛争に対し、アメリカはどのように振る舞えばいいのか? それってまぁ現代アメリカが、シリアやリビアイラクウクライナで抱える議論とほとんど同様なんですよ。そしてその上で、第一次大戦に参戦したアメリカは戦後に価値ある何かを生み出すことができなかった。その後にやってきたのはひたすら厭戦感だけ。


まるで、対テロ戦争後の現在のアメリカそのままな風景。


ウィルソンがつき ルーズベルトがこねし 介入餅 座りしままに食うはトルーマン - maukitiの日記
以前の日記でも少し書いたお話ではありますが、結果としてアメリカにおいて第一次大戦が地味な扱いとなっているのは、その結末がそれはもうひたすら地味で、端的に言って尻切れトンボに終わってしまったことにあるのだと僕は思います。実際(第二次大戦と同じく)戦争の勝者とはなったものの、だからといってその『戦後』に価値ある何か=国際連盟を築き上げることがさっぱりできなかった。
あの時、リベラルな国際主義を唱えたウィルソンは国内政治によって否定され、結果として世界は、案の定日本とドイツを抑止できないまま第二次大戦へと突入した。ぶっちゃけ第一次大戦と言うのは確かにアメリカは戦争には勝利したものの、栄光なんてほとんど無かったんですよね。むしろ、その懲罰的な戦後体制こそが次の火種にすらなった。
そりゃ地味な扱いになるのも当然だよなぁと。




ちなみにもう一つ、この評論の後半部分で述べられているように第一次大戦の後にこそ、ヨーロッパの決定的な荒廃を見たことで『文明の没落』を恐れるアメリカの(まさに私たち日本人にとっても例外ではない)人種差別社会の極致がやってくるわけです。ザ・暗黒時代。それはそれでとっても興味深いお話でありますので別の機会で。