あまりにも古典的な軍拡競争のジレンマ

刺激したくない、でも対抗しなくてはいけない


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41627
ということでウクライナの危機を受けて「対東側軍事同盟」という本来あった姿に回帰するべきなのか、という熱い議論となっているNATOさんちであります。最早ここまで来ると「どちらが先に手を出したのか」という議論はほぼ無意味でしょうね。ロシアは欧米が非軍事的な手段でウクライナへ手を出したと主張するだろうし、欧米の側はロシアこそが先にウクライナで軍事行動として手を出したと主張する。

 「(フロンティア諸国という)『どちらの支配下にもない国々』にNATO軍を進めることはしないというロシアとの取り決めは、維持できなくなっている」。英国議会インテリジェンス・セキュリティ委員会のマルコム・リフキンド委員長はこう語る。「NATOのアセットは、それを必要とするすべてのNATO加盟国に配備されなければならない」

 エストニアのスベン・ミクセル国防相は本紙(フィナンシャル・タイムズ)の取材に対し、「安心と抑止の一手段として、我が国への連合軍の駐留」を望んでいると語った。ただ、「冷戦時代のような、非常に大規模で固定的な駐留を望んでいるわけではない。師団単位の話をしているわけではない」とも付け加えた。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41627

まぁ古典的な軍拡競争のジレンマですよね。相手が軍事的プレゼンスを増大させた以上、均衡状態を維持するためにはこちらも増やすしかない。もちろんそれはかつてあった「危険な道」だと概ね解っているでしょう。
――しかし現実問題として、ロシアは既にその紳士協定を無視していて、ウクライナは対抗するだけの戦力が無かった故に見事に領土を切り取られた。
故に当然の帰結、あるいは当然の要請としてそうした危機を「間近に」見た東欧諸国の住民意志からの要請でもある。
NATOが即応力強化で新部隊、ロシアにらみ2日で展開可能| Reuters
さて、危ない道と解っていても、NATOもまたその拘束具を脱ぐべきなのか?
古典的な風景と同じく、今日のそれもやっぱりNATOの対抗措置は更なるロシア側の対抗措置を高い確率で招くことでしょう。そうならないとしても、少なくともロシアは更なる大義名分を手に入れることになる。


カウンターパートとしての政治家や現場の軍はともかくとして『NATO』というのは今尚「ロシアの仇敵」なんですよね。某国の反日ほどではないにしろ、少なくないロシア国民はそのように(宣伝された結果)認識している。
――もしここでNATOが目に見える動きをしたらどうなるか、と考えるとまぁその反発が目に浮かぶようであります。まるでどこかで見た風景そのまんまに、彼らこそが軍事力を増大させ緊張を招いているのだ、なんて。
だからこそ、冷戦時代以降には更に世界最強の軍事同盟である『NATO』というのはあまりにも強力すぎるカードであり、文字通り「最後の切り札」という扱いとなってきたんですよ。それをあからさまに持ち出すことそのものが欧州の安全保障上の懸念を生みかねない。かくして冷戦以降(アメリカという例外を除き)平和主義なヨーロッパは軍事費を――素晴らしいことに――削減し続けた。結果としてその表向きの「世界最強」の看板は維持しつつも、一方で『NATO』という軍事同盟の内実は(アメリカという例外を除き)より適切な規模に縮小=弱体化し続けてきた。
状況を複雑にしている要因の一つとして、こうしたNATOに関する現状認識のギャップがあったりするのかなぁと外野から見ていて少し思います。今でもそれは表向き「最後の守護神」でありながら、その実体はかなり骨抜きにされている。ところがその実体を是正しようとする動きそのものがまたロシアとの緊張を生む。
いやぁまさに混沌とする国際関係でありますよね。


まぁこの辺は私たち日本も全く他人事ではなく、むしろ数年来の中国台頭を受けての軍拡競争が始まりつつある東アジアを、他人事だからと批判的にみていたヨーロッパのウクライナ危機からのこうした対応にはざまぁ感が少しあったりなかったり。
実体と建前が乖離したNATOの虚実。それ故に更に深まるジレンマ。おそらく、これはやがて私たち日本も直面するかもしれない事態の一つなのだろうなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?