『効率性』という言葉が持つ(経済的)天使と(政治的)悪魔

経済的に正しくても、政治的に正しくない。


経済成長で少数言語が失われる、研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
うーん、経済的な議論と政治的な議論で、分けて考えなければいけないよくあるパターンかなぁと。両者が背反することは、しばしば、ある。敢えて非効率的な政治決定を目指す民主主義政治なんてその典型ですよね。

 研究チームは少数言語の話者の人数と地理的な分布、成長しているか減少しているかを調査し、グローバリゼーションや環境、社会経済的変化など、考えられる影響を比較検討した。

 結果、「一人当たりのGDPのレベルは言語多様性の消失と関連があることが分かった。経済的に成功するほど、言語の多様性はより速く失われていた」と、英ケンブリッジ大学University of Cambridge)の声明は述べた。

 論文の共著者、英ケンブリッジ大学動物学部の天野達也(Tatsuya Amano)氏は、経済が発展するに連れ、ある一つの言語がその国の政治や教育空間を支配するようになると説明する。「人々は支配的な言語に適応することを強いられる。さもなければ経済的・政治的に取り残される危険性にさらされる」と、天野氏は述べた。(c)AFP

経済成長で少数言語が失われる、研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

まず基本的な前提として、経済学的には所謂『取引コスト』を減らすことは生産性や合理性の観点からまぁ大正義と言っても良いでしょう。度量衡や法制度と同じレベルで、わざわざ異なる規格を使って取引する手間を省こうとするのは、経済的には合理的です。それこそ現代日本の私たちだってアメリカなんかのユニークで少数派なヤード・ポンド法をして「非効率だからさっさと止めればいいのに」と無邪気に言ったりする人は多いし、その言い分は概ね正しい。だって一々変換する手間があるし、そこでミスをする可能性だって少なくない。共通化すればその無駄なコストは減らせるのだから。
つまり――少数言語という要素はひとまず置いといて――こうした『取引コスト』が削減されていくのは、経済成長が進む上で当然の帰結でもある。競争があればあるほど、そんな非効率なことをやっていてはライバルに敗北してしまう。
だからこそ現代世界に生きる経済的な私たちは、ミクロな個人からマクロな企業まで様々な共通化を図ることで、そうした取引コストを出来るだけ減らそうと必死に努力している。


ところが、そんな「経済の効率化」と言う言葉は同時に「支配の効率化」でもあるわけで。それらを分けるのは、不可能とは言わないまでも、限りなく難しいんですよ。
前者を大義名分にしながら後者を推し進めたのがあの産業時代以降どの国でも一気に加速した国民の同化政策でもありました。みんな同じ教育を受けみんな同じ言葉を喋れば、みんな同じ国民になれるのだ。人間の共通化。国家の水平統合ナショナリズム一直線。まぁ現代でこんなことを言ってしまってはぶっ叩かれるのは確実ではありますが、多かれ少なかれ先進国ならばどこでも経験してきた歴史ではあります。ヨーロッパでもアメリカでも、日本でもアイヌ琉球など、そして現在進行形で大きな問題となっているのが中国さんちのチベットウイグルだったり。一つの国家となろう。
特に『言語』というのはアイデンティティに深くかかわる問題でもあります。だからこそ、最近のウクライナ東部の騒乱のように、その独自言語を排除しようとしたり、逆に公用語として認めさせようとしたりする。他にも『文化』や『宗教』も同じだったりするでしょう。政治的支配の為にそれらを奪おうとすることは、経済のそれと同じ意味で効率的である。
そんな反省から、人間を強制的に共通化しようとするのは非人道的である、というのは21世紀における基本的人権な価値観としてあるわけで。


――でもやっぱりそんな政治的意図とは別次元のお話として、経済上効率的だとはとても言えない。
故にそれらは積極的な公的保護、あるいは特別に強い愛着や動機がなければ、世代と共に徐々に消え去っていくことになる。


もちろん政治的支配の効率化の為に共通化しようとする意図は時代遅れの産物として否定すべきでしょう。一方で現代の議論としてあるのは、ではこうした経済発展による帰結(=自然淘汰)が解っていながらそこで「何もしない」のは許されるのか? 多様性保護の為に私たちは「積極的に」何かすべきなのか? という点なのでしょう。
「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと - maukitiの日記
この辺は以前書いた多文化主義のお話とかなり近い所にあるのだと思います。

単一の文化ではなく多数の文化が並立していく社会。まぁそこまでは特に大きな異論の余地もないからいいんですよ。問題はその次の議論としてある、ではその文化の多様性を維持する為に何か行動を起こすべきなのか、という点について。多様性の維持と存続の為に前者を選べば「文化的自由」は必ず損なわれてしまうし、かといって後者を選ぶことは今回のように批難轟々になることは目に見ているし、そもそも多様性という選択肢を残しておくからこそはじめて選択の自由が存在できるわけで。

「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと - maukitiの日記

そしてもう一歩先には、そんな少数保護や多様性保護というのは結果としてまた逆のポジションからの「共通化の強制」となるのではないか? という多文化社会のジレンマがあったりする。




経済的には概ね擁護できても、政治的にはまったく正しくないお話。まぁどうしてもめんどくさくなってしまうお話ではありますよね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?