いつまでもあると思うな平和と国際秩序

先人の知恵が失われることでやってくるもの。まぁ世の常と言ってしまってはアレですけど。


「自国の平和」と「世界の平和」が隔てるもの - maukitiの日記
そしてまたクリミアへ - maukitiの日記
先日の日記の終わりで書いた、戦後国際秩序の生まれを知らない「世代交代」による変化についてもう少しだけ。

私たちは、世界の秩序が崩壊しても、外界から隔絶していられると幻想を抱くべきではない。私たちの豊かさと安全は、全世界とのつながりによって保障されている。それゆえ、私たちに何ができて、何を行わなければならないのかと冷静に問わなければならない。同時に私たちの可能性の限界も、常に認識していなければならない。

http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/055-politik-in-deutschland/bm-aa-reden/20140903-steinmeier-namensartikel.html

こうしたドイツ外相の言葉はかなりの面で正論ではあるものの、やっぱり「徐々に」少数派となりつつあるのは間違いないのだろうなぁと。一つの理由としては、唯一超大国であるアメリカによる愉快な『世界の警察官』っぷりがその他の冷笑的な立場を育てたということもやっぱり事実ではあるでしょう。そしてそれと同じくらい大きな理由であろうのが、私たちは「あって当然のものとして享受している」故に平和のありがたみについても相対的に低下し続けている。
それは決して天賦のものではなく、誰かが不断に支え続けなければならないものなのにね。
ウィーン体制の立役者の一人であったカースルレーの言葉である「共通の利害があるだけでなく、共通の義務を有する」を私たちは最早忘れつつある。平和によ利害関係があることは知っていても、しかしそれを守るための義務がある方については、「平和の為にこそ」何もしない。それは何も各国政治指導者たちが殊更にバカで無能だから蔑ろにしているだけではなくて、正しく民主的国家に生きる私たち国民たちこそがそう望んでもいるのでした。
でも仕方ないよね。だって、戦後に生まれた僕たちは、平和というのはごくごくありふれたものであって当然だったのだから。
世代交代の政治的影響の研究なんかで言われているように、何故『世代』毎にそれぞれ世界の(自然な)見方や常識がズレるのかと言えば、ごく当たり前に世代によって解釈の立脚点から違うからなわけです。戦争があって当然だった大戦期生まれと、冷戦時代、ポスト冷戦時代に生まれた世代では戦争や平和観というのは根本的に(大抵はその後一生引きずる基準点となる)初期の印象が異なる。つまりそれこそが各世代の主流な政治的ポジションの違いとして生まれる。


個人的にはあまり好きな言葉ではありませんけども、よく日本でも「戦争を知らない世代」が増えるせいで戦争が近づいて云々というお話がありますが、まぁそれはそれなりに同意できるお話ではあります。
――ただ、個人的には、それと同じかそれ以上に問題となるのは「平和を生みだし維持する苦労」を知らない方ではないかと思うんですよね。もし仮に「(本当の)戦争の恐怖を知らない世代」と指摘するならば、そっくりそのまま私たちは「(本当の)平和のありがたみを知らない世代」と同義でもある。
もちろんこれまで無かったものが急に復活する可能性はあるでしょう。ただ――「いつまでもあると思うな親と金」なんて説得力のある警句が世間にあるように――それと同じくらい世の常としてあるのが、あって当然だと思っていたものが唐突に失われる悲劇、でもあるわけですよね。
「これまでなくて当然だったものが急に復活する」だけでなく、「これまであって当然だったものが急に失われる」方も同じくらい恐ろしいのかもしれない。徴兵制だの軍靴の足音なんだのと叫ばれる昨今ではありますが、今後直面するであろう世代交代の政治的影響としては、やっぱり後者の方の可能性も無視すべきではないよなぁと思います。
「昨日まであったのモノは、当然明日もあるに決まっているし、それを疑う方がどうかしている」なんて。


みなさんはいかがお考えでしょうか?