毒を薬に、薬を毒に

表裏一体である故に、扱いは慎重に。


朝日新聞と日本の異常な新聞観: Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜
これは概ねその通りだよなぁと。

英米の新聞観が、「新聞とは本源的に強大で危険なものである」という所からスタートし、だからこそ「政府にコントロールさせてはならない」であるのに対し、日本の新聞観は最初の大前提をスルーし、教条的に「新聞を政府にコントロールさせてはならない」という所から始まります。

朝日新聞と日本の異常な新聞観: Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜

これまで最近の日記でも民主主義社会における真っ当なジャーナリズムの必要性こそ言及してきましたけど、逆に返せば、それが失われれば必然的に「薬が毒に」なってしまうことを意味しているわけで。民主主義にとっての「薬を薬として」正しく機能させるためにも、そして同時にまた「薬を毒にしてしまわない」為にこそ、ニュースの正確性は追求しなければならない。


そもそも現代にまで続くジャーナリズムの基本原則の一つである「ニュースの正確性」が尊ばれるようになった原因の一つが、上記でも言われているように、あの100年前にあったイエロージャーナリズムの横行への反省があったわけで。そんな時代にあってジョセフ・ピューリッツァーという人が、センセーショナリズムではなく事実こそが重要である、と強く訴えたのです。かくしてジャーナリズムの理念を確立させた先駆者の名前を冠して『ピューリッツァー賞』というのは生まれた。あちらの新聞観というのはこうした所から来ているんですよね。
当時あったような、事実よりもセンセーショナリズムを優先するイエロージャーナリズムに墜ちない為にこそ。こうした大前提が日本ではあまり見られないと言うのは、その通りかもしれません。


ともあれ、あれから100年経ちインターネットという天敵に押される現代の新聞たちは、皮肉なことに(もちろん朝日新聞だけに限った話では絶対にないし、日本のそれに限った話ですらない)再びそうした領域に回帰しつつある。
――まぁ利益にならないから仕方ないよね。根本的にそんな真っ当なやり方というのは基本的には費用に見合った利益にはならないのです。だからこそジャーナリズムは『公共サービス』と呼ばれるわけで。そして上記ピューリッツァー賞で最も権威のある賞と言えば公共サービス部門(権力監視)でもある。
息子であるラルフ・ピューリッツァーが1912年のコロンビア大学ジャーナリズム科大学院創設の記念講演で次のように述べていたそうです*1

「父にとって新聞記事の正確性は宗教のようなものでした。(中略)新聞にとっては、ニュースが正確であるかどうかの検証作業がますます重要になっています。責任ある新聞であれば、ニュースの発掘に四ドルかけるとすれば、そのニュースが正しいかどうかの事実確認に六ドルかけるべきでしょう」

こうしたお話は現代にも通じる間違いなく正論であります。しかし経営が安定している間なら許されていたそんな報道の理想像は、ある意味で贅沢なお話でもある。だったら、カネとテマの掛かる事実確認なんてしなくても、まさにジャーナリズムの大義である公益=『権力監視』といった正義ならば適当に話を膨らませて書いてしまってもいいではいか、なんて。
座して良質なジャーナリズムと共に死ぬのか、それとも「売れればいい」とばかりに正確性を欠いた記事を書くのか、あるいは第三の道があるのか?
先日の日記でも書きましたけど、やっぱりこの朝日新聞に端を発する新聞の「誤報」「捏造」「不注意」――まぁどれでもいいですけど――問題というのは、結局こうした新聞社が直面する経営面の苦境なお話と無関係ではいられないのだろうなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ウォール・ストリート・ジャーナル陥落の内幕』P423