何で「ペンは剣より強し」なのか理解しなくて済む幸福な世界に住む人たち

「お前それ隣の独裁政権下でも同じこと言えるの?」なお話。


自衛隊の目的は人を殺すこと - Togetter
「悪を倒すのは暴力なのよ」えーまぁ、なんというか、脱力するお話ではありますよね。
「ヘイトスピーチ法規制」が仮に必要なら…【死ね/殺せ的表現は、対象を問わず規制】がまだ明確では?「少数派か、生来の属性か」的【「対象」の限定】の議論よりは。 - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.
「死ね」「殺せ」「殺すぞ」「殺したい」といった発言に関するtwitter資料集 - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.
ネタ的にはこの辺にも近かったりするのかなぁと。結果として、言論の自由確保されていて恣意的な権力濫用が少ない社会だからこそ見られる「殺せ」「死ね」が乱舞する、ある意味で幸福な風景と言うか。皮肉な話ではありますけど、一般に平和な社会であるほど斜め上に過激化する反権力な人たちというのは、まぁ多分に自己成就予言的――キワどい行動を繰り返すことで権力側から対処されればそれはそれである種の勝利となる――となるので良くある風景と言えばその通りなんですけど。香港のそれも、平和な社会かはともかくとして、そうした面がまったくないとも言えないのがアレなんですけど。
上記リンク先でも述べられているように、狙っているのか天然なのか、自由の限界を試そうとしている人たち。


そもそも、近現代以降など東西問わず多くの歴史で見られたような独裁政権への反権力な市民運動が素晴らしく『平和的』で『非暴力』な抵抗運動を志向したのは、身も蓋もない理由からあったからなんですよね。つまり、そこで社会騒乱を行っていると見なされては、それはもう単純に権力者たちの側から粛々と逮捕され不可視化処理されるだけから。故にただ理念や理想主義という点からだけでなく合理的な戦略の要請としても、徹頭徹尾彼らは平和的で穏健な運動を目指すのです。
マジで混じりけのない強権な独裁政権に抵抗した反権力な人たち、それこそ極北であるナチスからお隣の現代中国での市民運動まで、古今東西共通するお話。限りなく暴力性を排除した市民運動というのは多くの面で、それしか許されない社会だったからこそ、切実な最適戦略としてそうなっていったのです。
彼らは単純に暴力というよりも、それをやってはペンで負けてしまう――違法行為として逮捕され過激派のレッテルを貼られることで――ことを本気で恐れる。もちろん一定規模=それこそ内戦にでもなれば暴力の多寡こそが勝敗を決めるでしょう。でも、少なくとも倒すべき権力者による警察や法律といった政府が最低限機能している間はそんな『剣』を持ち出すまでもなく書類にサインするだけの『ペン』で処理されてしまう。
剣じゃペンに勝てない。少なくともそれでは世論を味方につけられない。


さて、翻って上記リンク先で見られる幸福な人たちというのは逆説的にそうした心配が限りなく少ないからこそ、あのような愉快な行動を採れるわけですよね。旧ソ連アネクドートじゃありませんけど、ほんとうに独裁者だったらそんな自由すらないわけで。政治風刺という形を採らなくて済むからこそ、その言葉はバカみたいに直接的になる。
「安倍死ね」とか「殺せ」とか「暴力で対抗するしかない」とか。
まぁそんな無邪気さが許されるのはある種の幸せなのかもしれませんね、とは最近ものすごく盛り上がってるお隣の国でのデモ騒動を見ていてもとてもよくわかるお話ではあります。あの中国とは違って、強く汚く直接的な言葉を使うことができることで日本の平和と自由を謳歌する人たち。もちろん天国だとも絶対に言えないけれど。多分大多数の一般の人たちよりもずっとその恩恵に与っているよなぁと生暖かい気持ちになってしまうお話。
いやぁつくづくここが日本で良かったよね。