『イスラム国』が国際社会(=欧米諸国)に問い掛ける「国家の大義」について

彼らの正義と平和観の根幹にあるもの。かつてボスニアでの大虐殺で問われたことがもう一度。



増殖し複雑化し続ける対テロ戦争の敵 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ということで、アメリカ自身からさえもどうしたらいいのか解らないよ的な嘆きが聞こえる、まぁ見事に混沌しか見えないシリアイラク空爆であります。

 たとえどんなにアメリカがISISを弱体化させ、壊滅させようとしても、その残党は長い将来にわたって生き延びるだろう。それが冷酷な真実だ。

 シリアの複雑な現実を見ればいい。ホラサンは独立した組織ではない。彼らはシリア国内で活動するアルカイダ系組織「アルヌスラ戦線」に合流し、それがシリアでISISと勢力争いを繰り広げている。つまりアメリカは先週、ISISとその敵の双方を爆撃したことになる。

 漁夫の利を得たのはシリアのアサド政権だ。アメリカがイスラム武装勢力をつぶしてくれるなら、アサドは親欧米系の反政府勢力つぶしに専念できる。

 状況はかくも複雑だ。アメリカ政府の判断は本当に正しかったのか?
いったいシリアで、いくつの戦線を開くつもりなのか? 介入せず、武装勢力同士の殺し合いを見守るという手もあるのではないか。

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まったく笑ってはいけないお話ではあるものの、しかし問題を複雑にしているのが「誰が敵で誰が味方か解らない」ではなく「(大小の違いはあれど)悪者が溢れすぎている」点なのでしょう。ISISからアサド政権にスンニ派支援国にシーア派支援国。そこに冷戦時代や、あるいは対テロ戦争にあったような単純な構図は存在しない。白か黒か、敵か味方か、というような単純で明確な枠組みは存在しなかった。
でもまぁやっぱりこうした光景がいきなり出現したのかというと、やっぱりそうではなくて、既に20年前にも一度見た風景ではあるのです。あの時のユーゴスラビアで、まさに各国政府の中の人たちは冷戦が終わった後にやってきたのが「混沌の時代」であることを心底実感したはずなのです。採れる選択肢はどれも後ろ向きのものばかりで、外交政策として「正しい道」が存在するかさえ解らず、しかし「楽な道」がないことだけは解っている。混沌しかない国際関係の時代が冷戦後の世界なのだと。
あの『9・11』がもたらした衝撃とその後の対テロ戦争はそうした複雑な時代からわずかに目をそらすことができた、ある意味で幸福で解りやすい世界でもありました。しかしそれが一段落つくことで、当然の帰結として、元の流れにあったモノが再びやってくることになった。
完全な味方も完全な敵も居ない、複雑怪奇な国際関係。


ただ、それだけだったら話はそこまで難しくなかったんですよ。上記引用先にもあるように、憎しみ合いの闘争の中で当事者たちが戦いでエネルギーを浪費し、双方とも疲れ果てた末に新しく均衡状態が生まれるのを待てばいい。おそらく勝った側は多少喜び、負けた側は多少悲しむだろう。そして良くも悪くも日常が戻ってくる。死ぬほど冷酷で身も蓋もないぶっちゃけた話をすれば、それだけで済んでればおそらくオバマさんをはじめとする国際社会=欧米諸国にとってそれなりに受け入れられる展開ではあったはずなのです。
――でもそれだけでは話は終わってくれなかった。21世紀な現代世界であろうがやっぱり克服できない人類の悲劇。戦争行為のごくごく自然の成り行きとして、そこには「大量虐殺」「民族浄化」と無縁ではいられなかった。
つまり、ここで国際社会=欧米諸国は深刻なジレンマに陥ることになるのです。その悪に座して傍観者となることは許されるのか? それは第二次大戦後にユダヤの大虐殺の反省から生まれた世界平和=平和主義を謳う国家たちにとって、最も根幹にある大義なんですよ。その大虐殺や民族浄化を看過することは、過去のあの忌まわしい記憶の再現であり、爾来目指してきた世界平和という大義そのものに致命的な疑問を投げかけることになりかねない。


ところが、心底皮肉なお話ではありますが、彼らのこうした本気の決意こそがそのような悲劇的な事態が進むことを無視し、黙認し、傍観しようとするベクトルともなってしまうんですよね。だってその事実を認めてしまったら介入する以外になくなってしまうから。だからこそ危機などないと見逃す。
まさに20年前のボスニアで彼らは「大量虐殺ほどではない」「大量虐殺的ではない」「民族浄化にきわめて近い」と目を背けながら、悲惨なニュースを見て見ぬフリを続けては、ユーゴスラビア紛争を最悪の所までに悪化させるのです。希望的観測からミロシェビッチたちの脅威を見誤り、そして最終的には同じく「国家の大義」として関与せざるをえないところまで追いつめられることになったのでした。
――まぁその構図って、現在のシリアやイラクで起きていることをそのまんまですよね。
かくして再び彼らは大義を問われることになっている。これまで少なくとも口では「世界平和」を謳ってきたが、では実際に行動する覚悟はあるのか? と。最近の雪崩を打ったような西側諸国の有志連合の参加には、こうした背景もあるのだと思います。まさにそれを座視しては、そもそも自分たちの国際社会における正統性の根幹が揺らいでしまうから。
まさに、今ここでこそ、世界平和を謳ってきたことが正しく本気であったことを、言葉ではなく行動として証明しなければならない。他人の手でなく自分たちの手で。それが彼らの(平和主義)国家としての大義であるから。




さて置き、そんな彼らの『国家としての大義』の象徴の一つである国際連合から半ばハブられ、一国平和主義=自分たちさえよければそれでいいとしてきた私たち日本からすると隔絶した議論ではありますよね。
その『平和主義』の定義について。
「自国の平和」と「世界の平和」が隔てるもの - maukitiの日記
先日のドイツ外相の言葉にあるように、まさに自分たちこそが現代世界の『平和』『秩序』を先導し担い手であると自負してきたからこそ、彼らはその危機に際して覚悟を問われることになっている現状。しかしだからこそ、正しく彼らには世界平和を謳う権利があるとも言える。
さて、別の形で「平和を愛する」私たち日本は、彼らの「国家としての大義」を全うせんとする覚悟をどのように見ればよいのでしょうね?


みなさんはいかがお考えでしょうか?