(それが良いものだとは)知ってるが、お前らの態度が気に入らない

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、よくあるお話。



ノーベル平和賞のマララさん、祖国パキスタンでは嫌悪の対象にも 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
パキスタン人がマララさんを嫌う理由 - Togetter
ということでマララさんのノーベル平和賞のお話で出てきた根強い彼らの不信感であります。

マララさんに対する憎悪の一部は、保守的な宗教観や女性の地位向上の反対などに由来する。ただ、パキスタンの多くの人は同国における武装勢力との10年に及ぶ衝突が米国によってもたらされていると考えており、この衝突に対する疑念もマララさんへの憎悪につながっている。

 コラムニストのシリル・アルメイダ(Cyril Almeida)氏は「マララさんが体現したものが問題になっている。パキスタンの戦闘状態とタリバンとの戦いは、外部から持ち込まれた戦争だという考えだ。これは米国の計略と合致する。そして米国的なものはすべて、強い疑念の対象となるに値する」と指摘した。

ノーベル平和賞のマララさん、祖国パキスタンでは嫌悪の対象にも 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

まぁこうした素朴な嫌悪がそこまで驚き――本邦なんて全く逆でそれを無邪気に『権威付け』として利用しようとする人たちが一部居るのもそれはそれで驚きですけど――なお話なのかというと、やっぱりそうではありませんよね。彼女の言う「教育のすばらしさ」という中身どうこうが問題なのではなく、言っている奴の素性こそが問題である。
「故にマララは欧米の傀儡であり、それを単純に喜べるはずがない」なんて。


これまであった歴史的経緯や、無人機爆撃祭りな現在進行形にある外交政策、更にはそうした『反欧米』ポジションを自身の国家運営の失敗の政治的正当化に使う現地政治家たちの存在を考えると、まぁ別に不思議なお話ではないのでしょう。
その価値観そのものではなく、もっと言えば欧米という人びとや文化そのものでもなく、パキスタンだけでないイスラム世界及び中東全般に対する欧米各国による外交政策の帰結として、ノーベル賞なんてモノが一緒くたに信用されていないだけ。その副次的被害として、こうした「教育のメリット」という本来中立な価値観であるそれが西欧価値観由来という『色』が着いてしまっている現状が不幸な構図となっているのでしょうね。
それこそ私たち日本人だって、せいぜい100年前まで戦前戦中の頃までは似たような所はあったわけで。もっと言えば現代日本でも尚そのように考える人だってそこそこ居たりする。それは何もアメリカやヨーロッパを対象にしたものではなくて、中国や韓国へ(それなりに正論であることを言ったときに)同じように反発する人は少なくないでしょう。
そして逆もまた然り。
でもまぁこんなのはそうしたマクロなお話だけでなく、ミクロな日常生活でも同じくどこでも見られる風景ではありますよね。少なくないネットでの炎上もそうした要素はあったりするわけで。Twitterの日常風景*1だし、某はてブだって結構そうでしょう。


日本の言うことは何でも信用できない。アメリカやヨーロッパの言うことは何でも信用できない。中国韓国の言うことは何でも信用できない。自民党の言うことは何でも信用できない。政治家の言うことは何でも信用できない。官僚の言うことは何でも信用できない。大企業の言うことは何でも信用できない。マスコミの言うことは何でも信用できない。
――○○の言うことは何でも信用できない。
つまり、俺の嫌いな奴の言うことは何でも信用できない。


何を言おうが何を書こうが「お前の態度が気に食わない」という無敵過ぎる論理。まぁもちろんそれが楽なのは事実でしょう。何も考えずに済むし嫌いな奴に迎合する必要もなくなる。ついでに偶に正解だったりもする。そうやっていつだって低きに流れる世の常。そんな内心やせめて内輪で済ませて頂ければまったく構いませんけども、それをなぜか堂々と公言される人たちを見るととっても生暖かい気持ちにはなってしまいますよね。
かくして属性だけを見て、後は問答無用とばかりに脊髄反射するなんとかアンチばっかりな世界へ。まぢ地獄ですわ。誰か今すぐ人類すべてに叡智を授けてくれればいいのに。


ということでそんな風に「素朴に」ノーベル賞を嫌うパキスタンの人たちを私たちも笑えないよね。オチとしては自戒の意味も込めて「先ず隗より始めよ」辺りでいいんじゃないかな。


がんばれ人類。

*1:だから適切なアンチ対策ができない有名人はTwitterをしない方が幸せである。