常識に魂を縛られた私たちの愛する『流行』

変化しているという錯覚を味あわせてくれるもの。


なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか、を数学者が解明 - GIGAZINE
面白いお話。『脳の認識の遅れ』について。
でもまぁとりあえず「流行に敏感」であることが、新たな流行を生む先駆者なのか、それともいち早く現状のトレンドに乗りそれを増幅させる人なのか、定義がよく解らないのがこのお話のなんか微妙にタイトル詐欺な趣となっているのではないかと。そもそも「流行に乗ろうとする」人であれば同じ格好をするのは当たり前ですよね。そしてその流行が一定の閾値を越えた所でそれは陳腐化し「流行に敏感」なconformistたちはまた別の流行を求めるようになる。


ともあれ、そうした「なぜヒップスターはみな同じ格好をしているのか?」について文化社会学的に適当に考察しようとするならば、そもそも選択肢自体あまり多くないから、という身も蓋もない点に行き着くのではないかなぁと思います。

ヒップスターはなんとか少数派のスタイルになろうとしますが、「これは犬が自分のしっぽを追いかけて走り回るようなものです」とJonathan氏。

なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか、を数学者が解明 - GIGAZINE

つまり新しい流行というのは本質に『反トレンド』であるわけですよね。皆が同じファッションをやっているから、そこで更なる注目・自己主張の為に敢えてその流れに反発する。でもそこで採れる選択肢ってそもそもそんな多くないわけですよ。
大前提の制約として現在ある流行、そして一昔前にあった流行――少なくとも記憶が鮮明な過去の流行とは違った形を採らなくてはならない。そして更に重要な制約としてあるのが、違ったことをやろうとしてあまりに奇抜なことをやってもそれこそ『変人』と紙一重にしかならないわけで。実際の所、ほんとうに誰も見たことのない新しく別次元で奇抜のモノを魅せた所でほとんどは誰にも理解されないんですよ。
それこそスク水とか女子校生制服とかゴスロリなんか着た素晴らしく奇抜なオッサンが極まれに町を歩いていたりしますけども、幾ら流行に逆らった彼らをお洒落だなんて言う人はまずいない。それはまぁ端的に「変態」と言うべきレベルですよね。


しばしばファッションの流行について「同じトレンドが形を少しづつ変えてぐるぐる回っているだけだ」なんて言う人がいらっしゃいますけども、まぁ完全にではないにしろ一面では真理であるでしょう。それは単純にその先駆者たちの発想力が貧困なのではなくて、むしろ受け入れる側の問題としてあるのです。私たちはあまりに大きな変化を急に受け入れることはない。
その意味で言えば、シーズン毎に変化する流行って社会や個人の革新性の表れではなくて、むしろ保守性の表れでもあるんですよ。本当に決定的な変化ではないからこそ、逆説的にその変化は社会に『流行』として容易に受け入れられている。現状を破綻させないまま、しかし表面上は変化していると錯覚させ飽きさせないでいてくれるもの。故に『流行』というのは真に新しいものが広まっていくものでは決してない。
服装による流行というのはそうだし、イデオロギーなどの思想や価値観としての『流行』でも同じことが言えます。故に「今すぐ人類すべてに叡智を授ける」ことは難しい。


古い流行とは違っていて、尚且つ他人から一定以上にはお洒落だと理解される程度に奇抜なモノ。変わらな過ぎてもダメだし、かといってあまりに変化球過ぎても常識に支配される世間からは『お洒落』という評価は周囲から得られない。
そりゃあんまり選択肢の幅は広くありませんよね。
かくしてヒップスターたちの間ですらも服は被ってしまうのではないかなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?