現代社会でも尚『移動』できない者は死ぬしかない、のか?

移動型狩猟採集社会でも見た「冷たい方程式」の現代版。

  
選挙期間に思ったことは、地方が静かに窒息していくんじゃないかということだった: 極東ブログ
辺りを見ていて改めて考えたお話。まぁ地方の問題については解っていながら、しかし答えを出すのは難しいよなぁと。以下の「移動できないまま」死んでしまう孤独な老人たちについてのお話。

 くどいけど、言い換えると、豪雪孤立村落というリスクは日本全土に薄く広がっていて、ほぼ潜在的にどこにでもあるにも関わらず、行政の県の縦割りで国家的な対応はできていない。対応のシステムも標準化されていない。
 なぜこうなのだろうか? この問いも、もどかしい。というのは、日本列島は昔から豪雪地帯はあり、また地震も多発している。「長野県神城断層地震」の地域については江戸時代に大災害が発生している。だから、日本が経済発展していく過程で、それなりの対応が出来ていてよいはずであり、実際には、その時代ごとにできていた、と言ってもいいのだろう。だが、そろそろそれが、ダメの方向にギアを変えているんじゃないだろうか?

選挙期間に思ったことは、地方が静かに窒息していくんじゃないかということだった: 極東ブログ

以前から指摘されているお話ではありますが、やっぱり現代社会って『移動』することが文明的な生活を送るうえで必須なんですよね。もちろん移動せずに生きていければそれはそれで問題なかったわけですけども最早(死ぬまで)親と子が一緒に暮らすことは少数派であり、むしろ交通手段が素晴らしく発達した現代世界だからこそ(徒歩では到底日常的に移動しきれない)長距離移動はデフォルトとなってしまった。
そんな長距離移動を前提にしてきた現代社会が、皮肉なことにかつて数千年前にあった移動型の狩猟採集社会の時代にもあった社会問題を復活させているのは――まったく他人事ではないんですけど――興味深い風景だなぁと。


ジャレド・ダイアモンド先生の『昨日までの世界』に詳しいんですけども、かつての伝統的社会における「親殺し」、直接手を掛けるのではなく間接的に事実上見捨てるが起きる理由について次のように述べているんですよね。

(なぜ親を遺棄したり殺したりするのか)
このような行為の報告例の多くは、高齢者の存在が深刻な足手まといになる社会における事例である。その場合、理由は以下の二通りである。ひとつは、移動型の狩猟採集民のあいだにみられる理由であり、それは、野営地から次の野営地へ移動する彼らの生活形態に起因している。彼らには荷役動物がおらず、荷物を運ぶのは何もかも人頼りである。赤ん坊は人が背負って運ぶ。集団と同じ早さで歩けない四歳以下の子どもも、誰かが背負って運ぶ。武器、道具、その他の所有物、あるいは、携帯用の食料や水といったものも、人が運ばなければならない。そういう状況のなかで、これらの子どもや荷物に加え、自力歩行が困難な高齢者や病人を帯同させて野営地からつぎの野営地へ移動するとなると、それは集団にとって大変な負担であり、とてもできない相談なのである。*1

単純な食料リソースの不足と並んで、こうした高齢者の移動補助に伴う社会負担こそが、高齢者を見捨てるインセンティブとなっていたそうで。


そして現代でも、単純に生存していくだけの衣食住のリソースの問題というより、その『移動』手段の問題が史上例に見ない超高齢化社会である今になって復活している。社会生活を営む私たちが、数千年前にも経験していた高齢者問題のひとつ。つまり足腰の弱った彼らの『移動』をどのように(負担の少ない形で)支援すればいいのか? その回答の一つが『老人ホーム』のような移動の手間を極限にまで省いた集約化した形態ではあるのでしょうけど、それを望まない人は少なくないわけで。
故に現代日本でも解決案として公共インフラ維持や、もっと大きくコンパクトシティ志向が叫ばれるわけですけども、大して議論は進んでおらずレリゴーレリゴーな風景となっているだけ。かつてはそこから定住社会に移行し移動せずに済む社会を形成していくことでこの移動問題を乗り越えたわけですけども、さて私たちは一体どの道を選べばいいんでしょうね?
まぁあんまり私たち人間社会が抱える問題の本質ってたいして進歩してないんだなぁとなんだか斜め上な方向で感心する気持ちになってしまいます。
そりゃ簡単に解決するはずないよね。


老いた構成員の移動手段をいかにして確保すればいいのか、という人間社会の本質的な難問について。ただお金で解決出来ているうちはまだよかったのにね。でもそれも永遠には続けられなかった。
みなさんはいかがお考えでしょうか?                

*1:上巻P365