我多忙、ゆえに我満足あり

「忙しい、でも、だからこそ、不幸じゃない」な強迫性余暇時間恐怖症か自己成就予言のようなもの。



なぜ現代人はみんな「忙しい」と感じるのか? - GIGAZINE
ということで経済学のテーマとしてもしばしば語られる「時間がない」現代人たちについてのお話。一般的には、文中でも指摘されているように、「時間=金」という考え方は私たちに余暇時間にすらサンクコストを意識させるようになったし、あるいは携帯やパソコンなど情報機器の発達は仕事とプライベートの境を決定的に曖昧に――一方で重要情報管理の観点から厳密に両者を区別されることが一層求められているようになっているのは皮肉で愉快なお話ではありますけど――していることで完全な余暇時間を確保することが難しかったり、そして女性の社会進出が進めば必ず育児や家事との両立に齟齬が出てくるのは当然の帰結でしょう。

アメリカで行われている生活時間調査によると、アメリカ人の余暇時間は1965年から増加し続けており、同様の傾向はヨーロッパ諸国においても特に顕著に見られます。そのため実質的に自由な時間が増えているはずが、いつも忙しく感じるのは認識の問題の一種であるとのこと。

なぜ現代人はみんな「忙しい」と感じるのか? - GIGAZINE

ともあれ、それとは別に社会学的要因としてあるのは、ある意味では私たちが「忙しいことを望んでいる」点も大きいのだと思うんですよね。某地獄のミサワにあるような「かーっ、忙しいわー、時間がなくてつらいわー(チラッ」アピールというのは、結構よく見られる光景でもあるわけで。


それこそ私たちは仕事が無くてヒマであるよりも、仕事があって忙しい方が「まだ」マシだと思っていますよね。だからこそ無職やニートな人たちを内心で見下しうっすらバカにすることをやめない。ウェーバー先生の言うプロテスタント倫理とよく似た労働教に支配される私たち。*1
そして実はそれって仕事以外の余暇時間でも同様に見られるようになっていて、先日のクリスマスシーズンなんかは解りやすい極端な例ではありますけど、やっぱり「予定がない」ことは「寂しいヤツ」とごくごく当たり前に認識されてしまっている。巷に溢れる広告宣伝で余暇時間やイベントで消費せよと煽られまくっている私たちは、まさにその通りに(金と時間を)消費しなければ損であると確信している。
それは特別なイベント期や長期休暇だけでなく普段の休日=日曜日なんかでも一緒で、「次の休日なにするの?」「何も予定ない」「うわーサミシー」とかやっぱり多かれ少なかれ誰もが見覚えある日常風景ですよね。
――んなもん休みなんだからほっとけよと個人的にも思いますし、その反動が『リア充爆発しろ』な支持層へと繋がっている面はやっぱりあるのでしょう。
予定の詰まっていない=忙しくない人間は、必要とされていない寂しい人間である。時間に追われない生活よりも、時間に追われる生活の方がすばらしい。かくして私たちはスケジュールに空白を必死に作ろうとするのではなくて、むしろ必死にスケジュールの空白を埋めようとする。
そりゃ現代人の多くが忙しいと感じるのも無理はありませんわ。だって、忙しくあれ、と内心で望み、概ねその通りに実際に振る舞っているのだから。


時間は有限資源であり、故に効率的に使用しなくてはならない。暇な時間は無駄な時間である。そこから更にもう一歩発展して「忙しくすることが美徳である」という現代社会の基本的教義に繋がっている。まぁこうした構図になるのは解らなくはないんですよね。だって忙しいという事は、少なくとも自分に求められている事がある、という自己実現の欲求を満たしてくれるモノでもあるから。
強迫性余暇時間恐怖症、あるいは自己成就予言のようなもの。
マズロー先生の『自己実現理論』風に言うと、後半にやってくる承認欲求及び存在欲求こそが他の欠乏欲求が満たされた後にやってくるものである以上、生存上の最低限の基本的生活が満たされている現代人であればあるほど「忙しい」ことを自身に望んでしまうのは、やっぱり当然とも言えるんですが。


なぜ現代人はみんな「忙しい」と感じるのか?
――みんな忙しい方が「良い」と思っているから。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:本題とは関係ありませんけど、だからこそニートや無職をバカにする人はブラック企業(およびそこで働く人たち)に石を投げる権利はない、と個人的意見として思ってます。