ガチャゲーにおけるトッププレイヤーの果たす役割

下位へと波及する新基準=デモンストレーション効果。


ガチャ4200回(130万円)でも手に入らないゾーマ : ガハろぐNewsヽ(・ω・)/ズコー
わー無駄金だー。でもまぁ人間社会における『贅沢』なんて基本的にほとんど全てそんなものですしね。需要の多くは、その商品やサービスの持つ本質的な価値よりも、それを購入した者に与える社会的地位と関係が深い。「まったく現実的に価値のないデータ」として揶揄されるソシャゲなんかは特に言われるお話ですけども、まぁそれを言ったらどう見ても現実のブランド商品の多くだって本来の商品価値とは無縁の所でその価格が決まっているわけですし。
故にこうしたバーチャルな仮想社会って、人間社会の縮図でもあるとさえ言えるわけで。人々はより満足する為に、本来の商品価値は全く無関係の所でこそ割高なコストを支払う。


例えば、私たち一般庶民にとって大富豪な某ビルゲイツさんなんかがどれだけバカでかい家を建てた所で、ほとんど関係ない話ではあります。床面積4000平米なんて家に住むなんて想像もできない。部屋でフットサルでもするのかな。でも彼と同等に圧倒的な金持ちにとってはそれは十分実現可能でしょう。ここで彼のような知名度が高い有名人は新たな『基準』を設定することになるのです。つまりビルゲイツ程度に金持ちであるのならば、これくらいの大邸宅に住むのが「普通」であると。
そしてその基準は徐々に下層へと波及していく。ビルゲイツほど金持ちじゃない人は、ビルゲイツよりも少し小さな家を買う。更に金持ちじゃない人は、更にもう少し小さな家を買う。経済学者のロバート・H・フランク先生はこの連鎖を使うことでアメリカにおける新規住宅の床面積の増大を説明できるとしています。収入の中央値がほとんど上昇していないにも関わらず、しかしみんなが買う家は何故か全体的にデカくなっていく。それはジェームズ・デューゼンベリ先生が『デモンストレーション効果』*1と呼ぶもの。
私たちは下を見て貧乏人が「あれしか」持っていないから自分が持つべきモノこれだけだと相対視するのではなく、自分より上の金持ちが「あれだけ」持っているから自分が持つべきモノはこれだけあるべきだろうと考える。


その意味でこうしたトッププレイヤーの役割と言うのは、運営にとって単に「課金額の大きさ」という意味だけでなく重要なのです。まさにそうした人物こそが、該当社会における『基準』を設定する。彼ならばゾーマを5枚持っている。それよりも課金量の少ない自分はもう少しだけ少ない所を目標にしよう、なんて。
某アイドルゲーでも一つの噂的話としてトップランカーの課金に合わせて、新規レアが選ばれているなんて話がありますけども、十分にありうる話だとも思うんですよね。まさにそうして人物が達成する『基準』こそが、その社会全体に影響を与えるわけだから。ソシャゲにおけるレアの価値は、中央値が決めるわけでも無課金が決めるわけでもなく、廃課金兵こそが決める。単純に彼らが一杯金を使うからというだけでなく、ぶっちゃけ彼らが持っているデータ量こそが「勝ち組」の証であり、ひいては「負け組」を設定する役割を担うから。
故にブレーキがぶっ壊れた廃課金兵が複数居るガチャゲームというのは、それはまぁ悲惨なことになってしまいがちなんですよね。天井ばかりが上がっていくから。



自分が持っているモノを絶対基準としてではなく、相対基準として他人と比べてどれだけ持っているかが私たちの満足感を左右する。故にその満足には終わりがない。しかしだからこそ現代においてそうしたソシャゲーは半ば「全てのゲームを過去にする」程の圧倒的な勝利を収めつつある。こうした人間社会の基本原則に訴える点においては旧来のゲームにはなかった「悪魔的に良く出来た」システムであるから。
いやぁ人間ってどうしようもないよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?