レスプブリカ・クリスティアーナは衰退しました

しかしイスラムは「まだ」そうではない。


http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/15/rome-pope-france_n_6482504.html
ということで法王な人からも苦言が呈されたそうで。

法王は訪問先のフィリピンへ向かう機中で語った。表現の自由基本的人権だとしながらも、もし同行者の一人が自分の母親をののしったら、「パンチがお見舞いされるだろう」と身ぶりをつけて説明。他人の宗教をばかにする人にも同じことが起きるとして、「他の人の信仰を侮辱してはならない」と戒めた。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/15/rome-pope-france_n_6482504.html

でもまぁこうしたカトリック――キリスト教イスラムのそれと同じくらいに疑念を持たれるかと言うと、やっぱりそうではないよなぁと。もちろんそこに差別的な要因がまったくないとは言いませんけど、しかしもう彼らは脅威ではなくなっているから、という面も大きいのではないかと。まぁ現在のイスラムが実際にそうなのかというとそれはそれでやっぱり議論の余地はいっぱいあるのでしょうけど。



ともあれ、最早キリスト教は政治的に去勢された――というと誤解を招きそうですけども、社会における根幹の普遍性を提供する所謂『キリスト教国』を目指すような存在ではないわけですよね。もちろん今でも彼らにはそれなりに影響力はある。でもかつては、それこそイスラムの特性と言われるような基本的価値観から日常生活全てを射程に含めるような普遍的社会の構築って実際中世終わり頃まで彼らは真面目に目指していたわけですよ。
政治と宗教は同一であり一蓮托生である。故に我らが住むのは『キリスト教共同体』である。
――ところがそうしたキリスト教による普遍社会への試みは近代の幕開けと共に複数の国家理性が各個に(特殊例として)優越することで、厳密に実現したことはなかったとはいえ、永遠に失われたわけであります。
ローマ法王、同性愛や離婚への理解求める 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
その意味で、今のキリスト教って離婚や同性愛の問題の扱いを見れば一目瞭然なように「まず自由があってそれに宗教側が配慮する」という構図であるわけですよ。その両者の『妥協』に際しての主従関係の決定的な逆転こそが近代の目覚めだと言っていい。最早彼らが正義を一義的に主導するのではなく、既にある社会正義に「寄る」ようにして導かねばならなくなった。それはまぁ対抗宗教革命の時代から新トマス主義などにも見られる普遍性構築への志向から転落した彼らの生存戦略であり、その現代版が上記のような離婚や同性愛の扱いの緩和という動きに繋がっているのでしょう。
彼らは本質的に融和的で人間主義的なのではなくて、そうした世俗的価値観と融和しなければ、生き残れない。レスプブリカ・クリスティアーナは衰退しました。


故にキリスト教は最早去勢された存在である。少なくとも西欧においては。
――でも現代のイスラムは尚もそんな弱弱しい存在なんかでは決してない。『妥協』の主従関係はまだ逆転していない。故に彼らは世俗にある自由とは妥協しない。する必要がない。
イスラム教が本質的に「不寛容」であるから、逆にキリスト教が本質的に「寛容」であるから現代のような構図になっているわけではなくて、ただキリスト教はかつてのその試みに失敗し、イスラムは尚もまだその試みの途中であるというだけ、なのではないかと個人的には理解しています。


いつかイスラムがより穏健な形で変わるとすればこの(教義に基づく)普遍的社会構築への試みが――キリスト教と同じく――失敗した時でしょう。もしかしたら今の『イスラム国』はそうした流れの中にあるのかかもしれない。あるいはキリスト教が失敗したその試みに成功するのかもしれませんけど。


キリスト教がかつて破れた夢に尚も挑戦中のイスラム教。その勝敗について、私たちが生きている間に見ることは出来るのでしょうかね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?