宗教に対する「表現の自由」は今も尚『特殊』を守る武器か、それとも新たな『普遍』か?

かつて特殊性の象徴であった「表現の自由」の今。


「表現の自由」論争についての適当なお話 - maukitiの日記
レスプブリカ・クリスティアーナは衰退しました - maukitiの日記
先日まで書いてきた日記を枕にしての、現代における「表現の自由」についてのまとめのような適当なお話。


これまで上記日記で書いてきたように結局のところ「表現の自由」を叫ぶ彼らが守ろうとしているのは(カトリック*1イスラムなどの)世界宗教潜在的に持つ普遍主義への抵抗権であるわけですよ。全てを一つの価値観によって説明できるとする宗教は、地域差や個人的価値観の相違を認めない抑圧的存在である。みんな違ってみんないい。
――世界の唯一普遍を追求する宗教に対して、本来それぞれ別個に持つはずの特殊性の保持を訴える為の余地は常に担保されているべきである。
時事ドットコム:英首相、ローマ法王に反論=表現の自由制約発言で
だからこそ彼らは宗教的権威に対しての「表現の自由」や「言論の自由」を叫ぶことをやめない。押しつけがましい『普遍』に対してそれぞれ個別の『特殊』を主張する為に。

【ワシントン時事】キャメロン英首相は18日に放送された米CBSテレビのインタビューで、フランスの週刊紙シャルリエブドがイスラム預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに関し、「自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する」と述べた。
 「他人の信仰を侮辱することはできない」として表現の自由にも制約があるとの認識を示したフランシスコ・ローマ法王に反論したものだ。(2015/01/19-05:41)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201501/2015011900028&g=int

話は微妙にズレますけども、これってヨーロッパにおけるキリスト宗教史などを考えると、まぁすんごい愉快な歴史風景だと思うんですよね。宗教権威の中枢たる『法王』に対し、独自性=特殊性を持つローカルな英国から権威を否定しようとしている。
教皇尊信罪法かな?


ともあれ、まさに現在のシャルリーエブド以来「表現の自由」論争でもしばしば指摘――ヨーロッパ的特殊性にそこまで馴染みの薄い日本やアメリカ――されているように、本来『特殊』性を追求する為の手段であった「表現の自由」って既に現代ヨーロッパ世界では圧倒的な支持の元に既に『普遍』性を帯びてしまっているんですよね。中世以降ヨーロッパは前者のような考え方を用いることでヨーロッパが統一された普遍的なキリスト教世界であることを否定し、やがてその特殊性は欧州における新たな普遍性を獲得した。
――つまり、本来『特殊』であったものが広く行き渡った結果新たな(抑圧的な)普遍的教義にまで至っている。
その意味でこそ、これまでは散々バカにされてきたはずの『文明の衝突』的な光景となっているんですよね。元々あった「特殊対普遍」ではなくて、むしろ「普遍対普遍」という構図になっているのではないかという疑義が持たれるようになっている。
痛いニュース(ノ∀`) : 「新聞では銃弾を防げない」と風刺した少年を逮捕 一方過去シャルリは「コーランで銃弾は防げない」 - ライブドアブログ
反対派から揶揄のネタにもなっているフランスのダブルスタンダードな対応はこうした点から説明できるかなぁと。


ということで、今の「表現の自由」をめぐる構図をまとめるとこの辺りだと思います。

  • 表現の自由を尚も訴える人びと
    • 「宗教的権威による単一の普遍性追求を抑止する(個別の特殊性を守る)為の表現の自由は現代でも重要である」
  • 表現の自由に疑義を唱える人びと
    • 表現の自由という手段は最早普遍性を帯びている以上、それを強要することはまた別の意味での普遍的価値観の押しつけである」

この両者の認識の相違こそが問題となっているのではないかなぁと。


それは現代でも尚も特殊性保持の為の手段か、それとも新たな普遍性の強要か。
みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:元々catholicは「普遍的」「万人の」を意味していて、中世までのキリスト教ってよく言われるイスラム顔負けの社会生活全てに及ぶ宗教だったわけで。