グローバル版多文化主義の未来

感情に配慮する程度はどれくらい?


ギリシャやロシア、中国に見る「屈辱の政治」 人間と同じくらい繊細な国民国家、紛争解決には感情への配慮が必要:JBpress(日本ビジネスプレス)
まぁ難しいと言うか、その「配慮」って人間社会における哲学問題の核心問題の一つで、ぶっちゃけ途方に暮れるお話ではあるんですよね。

 長年にわたり、さまざまな理論家、哲学者が人間の営みにおける自尊心と屈辱の役割について書いてきた。18世紀の啓蒙主義の哲学者、ジャン・ジャック・ルソーは、人間の腐敗の源泉は、他者より優れていると認めてもらいたがる人間の欲求にあると論じた。

 ステータスに対する不安(ルソーはそうは呼ばなかったが)は、多くの悪の根本原因だ。それから数世紀経ち、国際関係の「リアリスト」の理論家は、国家は人間と同じ多くの感情によって動かされていると主張した。こうしたリアリストは、権力に対する国家の欲望を強調した。その感情の裏側にあるのは、無力感と、無力感に伴う屈辱を必死に避けようとする意識だ。

ギリシャやロシア、中国に見る「屈辱の政治」 人間と同じくらい繊細な国民国家、紛争解決には感情への配慮が必要:JBpress(日本ビジネスプレス)

個人的にはマキャベリ先生を思い出すお話かなぁと。他にもクラウゼヴィッツ先生も指摘していたことで、まさに国際関係の原典のような古典的リアリスト論ではありますよね。基本中の基本と言っていい。
つまり、国家を人間と同じような存在である、という立場に立った場合に導かれるのは(まさに人間がそうであるように)国家もまた生まれつき「他者を支配したい」という欲望が備わっている以上、だからこそ国家間戦争も当然起きるのだと。



そもそも論をすれば、近代自由主義とはこうした『優越願望』『名誉』『栄光』『認知への欲望』といった人間がアプリオリに持つ性質を如何にして平和的に克服するか、という思想であり社会変革構想でもあったわけですよね。
その結実の一つが、共和制=民主主義制度=権力分立による政治支配的野心の制度的均衡抑制であり、そして社会の近代化とはつまりブルジョワ的価値観の普及=名誉よりも金と物質的満足を目指そうぜ、というモノだった。ちなみにフクヤマ先生の『歴史の終わり』とはこうした気概や誇りといった性質が、現代社会では「完全に」顧みられなくなったのだ、という点をして彼はリベラルな民主主義が歴史を倫理的に終わらせたのだ、と述べているのでした。
――ただ、そうは言いつつもこうした価値観は欧米や日本などを筆頭に豊かな国では概ね多数派となったものの、しかし世界全体を見れば、尚もこの戦いは現在進行形で続いているわけですよ。
中東やアフリカなどで見られるイスラムの戦いも(西欧的)近代化への抵抗運動としてこうした要素はそれなりにあると思われるし、もっと言えば最近のヨーロッパにおける「多文化主義の死」も、ヨーロッパ市民が通過した上記社会変革を、未通過な国からやってきた移民たちを国内でどう両立させるのか、というお話なのだと思っています。でもまぁ今回日記とは別のお話なので割愛。


こうした近代思想へのカウンターとして、人間からそうした誇りや気概を無くせばただの動物になりさがる、とニーチェ大先生が劇的に登場するのです。人間とは欲望と理性だけではなく、気概を持ちつまり優越願望こそが人間を人間たらしめる性質であると。没価値的な近代的リベラリズムでは、個人の「生」そのものの意味を確保できなくなる。そんな近代的思考を受け入れた私たちだからこそ、再び何のために生きるのか、というモラトリアムに陥ることになった。
ここから発展して現代におけるリベラリズム議論では、上記ホッブスやロックやルソーなどの時代に解消したはずの『優越願望』を今度は如何にして他者の権利を妨げないような『誇り』『尊厳』『アイデンティティー』として個人の差異を認めていくか、ということが問われているのでした。
まさに多文化主義として。

 これらのことが意味するのは、国際紛争を解決するためには、利益と同じくらい感情について考える必要があるかもしれないということだ。

ギリシャやロシア、中国に見る「屈辱の政治」 人間と同じくらい繊細な国民国家、紛争解決には感情への配慮が必要:JBpress(日本ビジネスプレス)

ということで上記リンク先でも指摘されているように、まぁ人間がそうである以上国家も同じく、ただ利益によってのみ行動しているわけではないというのは多くの学者が指摘しているお話でもあります。実際、ロシアや中国そして危機に瀕するギリシャなどを見ればそうした感情に配慮することは必要なようにも見えるわけで。
問題はそれを「どこで」「だれが」「どういう基準で」という点にあるわけですよ。ここで国内的な多文化主義の扱いについてならば、その社会内部にあるルール――司法や民主的手続きや文化教育によって決めればいい。いやまぁ例のフランスの銃撃事件からの両者の感情問題なんかを見ればわかるように、国内ですらもまったく簡単じゃないんですけど。


しかし国際関係おいてはそんな最低限のルールや合意すら存在しないわけで。いや、ローカルには存在していてもそれが普遍的広がりを持つとは絶対に言えない。国家と国家による国際関係においてはどうやってその配慮すべき「感情」の是非を決めるのか?
――と問われると途方に暮れるしかないよねぇと。今尚、国内よりも更に貧弱な制度しかない現代の国際関係において、一体どうやってそれらを満足させれば良いのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?