希望的観測に基づいた絶望的なウソ「あの素晴らしいまちをもう一度」

愚行だろうがなんだろうが、その計画は今私たちが生き選択していることの証である。


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うーん、まぁ身も蓋もなく厳しい現実を認めちゃったら死ぬしかない、となると幻想だろうが妄想だろうがそれに縋るしかないのは当然の帰結だよなぁと。端から見れば、無駄にバカなことをやらずにひっそりと穏やかに座して自然消滅すればいいのに、とか勝手なことは言えますけども、しかし当事者な人たちにとってはそんな結論受け入れられるわけがない。

例えば、先日発表された京丹後市京都府)の”戦略”には「驚き」の声があがっています。なぜかというと、人口がV字回復するというシナリオに沿って、計画が立てられているからです。京丹後市の「まち・ひと・しごと創生」に関する「総合戦略」をご覧いただくとよくわかります。

「地方創生」は、そもそも地方の人口問題を発端にスタートしました。それゆえ、地方自治体として国に提出する計画が、人口減少を前提としていては、理屈が通らないのかもしれません。

しかし、同市の人口は約5.9万人(2010年の国勢調査)です。国立社会保障・人口問題研究所では2060年には2.6万人程度まで減少すると予測しているものを、一気に7.5万人にするという計画をたてているのですから、あまりに非現実的とも言えます。

このような「都合」と「願望」をもとに全国の計画を積み上げていけば、日本の人口が計画上は2億人を突破してしまうという笑えない話になりそうです。これは今に始まったことではありません。このような野心的な目標を設定し、無謀な開発を行った結果、その都度計画は失敗に終わり、ツケは計画を立てた主体(地方自治体)に残されてきたのです。

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日本の人口は今後縮小していく。もちろんそれはそうだろう、しかしそれは私たち以外のどこかの町の話(=総論)であって私たち(=各論)はそうではない、なんて。


おそらくリンク先でも述べられているように、それはむしろ死期を早めかねないかなり自殺的な誇大計画であることは事実なのでしょう。しかし、あくまで現実的な縮小戦略を大多数が好むのかというとやっぱりそれはほぼないわけで。
重要なのは実際に計画が成功するかどうかじゃないんですよ。自分で選択し、自分たちで決めた計画を実行していると認識し信じ続けられるかどうか。希望さえあれば生きていける、とは昔から叙情的に言われるお話ではありますが、より科学的に言えば、自らの選択の自由がある限り生きていける、というお話なんですよね。シーナ・アイエンガー先生が『選択の科学』で仰っているように、それは人間のサガとも呼ぶべき生まれながらの欲求であり本能であります。選択する自由を持っている(と思える)ことこそが、私たちが生きる上で最大のモチベーションである。
いやむしろ野生状態よりも(選択の余地がない故に強いストレスにさらされる)動物園の動物たちの平均寿命の方が低い、と言うお話を考えると動物そのものの根源に関わるお話かもしれない。



「なぜ地方は厳しい現実を直視できないのか?」
――そんな現実を直視したら絶望しか残らないじゃないの。


故に彼らは優しいウソをつく。まだ希望を捨てず絶望しないために、そんな希望的観測に基づいた絶望的なウソをつく。それは別に絶望から来るウソではなく、尚も最後の箱の底に希望が残っているからこそ生まれるウソであります。まだ俺たちは終わっちゃいないのだ。
それって戦中の風景とどう違うのかと聞かれるとまぁ困ってしまいますけども。あの時の彼らだって頭のいい人たちは皆内心解っていたけれども、しかし「あの時だって」そう言い続けるしかなくなってしまったわけで。
それはただ無能の証というだけでなく、少なくとも半分は絶望の証でもあるのです。絶望しない為に希望を見出す人たち。



かくして彼らは半ば解っていてながら優しいウソをつく。まだ終わりじゃない、まだ手は残っている、まだ絶望には早い、まだ希望あるのだ、と。
あの素晴らしいまちをもう一度。
やさしい世界。