そうさ僕らはレイク・ウォビゴンの住人たち

『平均以上効果』の典型例。



キーパーソンインタビュー:「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん - 毎日新聞
とても真っ当に「転向」した方のお話。「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長した」というよりは「フクシマを描く自大化した善意」こそが原因だったのにね。あの災害を見て生まれた善意なんて実は珍しくなかったはずなのに、しかし彼らは自身に生まれたそれをまるで中学二年生のような自己例外視・自己英雄視に至ってしまった。
笑うだけではなく、やっぱり他山の石としても見るべきお話かなぁと自戒しておきます。その「意識の高さ」が意味するモノについて。自分だけが先が見えていると確信するとても人間らしい行動は、やっぱりわが身を振り返るとただ笑うことはできないよねぇと。
構図としてはこんな感じなのだと思います。

私が大人になって初めて直面した大災害
それは東日本大震災そして福島原発事故で、私は目覚めました
その放射能と被ばくは悲劇で、かならず邪知暴虐な原発は取り除かねばならない
こんな素晴らしい決意に目覚めた私は
きっと特別な存在なのだと感じました


今では、私が、私こそが真実に気付いた覚醒者
(無知な)福島の住民たちにあげるのはもちろん避難勧告
なぜなら彼らは私と違って特別な存在でなく、騙され考えることをやめた哀れな羊たちだからです

きっと彼女の中で自分は「特別な存在」だったのでしょうね。ありがとうヴェルダースオリジナル。






内容的にはそんな「特別な存在」ヴェルダースオリジナルなネタだけで終わらせてもいいんですが、それだけじゃ寂しいので以下適当なお話。

自分で認めるのはつらいのですが、心のどっかで福島の人を見くびっていたのでしょう。「たぶん、真実を知らないのではないか」「放射線に慣れてしまっただけでないか」と。

 ◇「福島に住む人は無知じゃない」 足りなかった想像力

 「見たい福島の姿」だけを見ていた?

 松本さん そうそう。でも、福島に関するデータがだんだん明らかになってきましたよね。

 安斎育郎先生(立命館大名誉教授、放射線防護学。国の原発政策に批判的姿勢をとる)が除染や放射性物質の計測をアドバイスしてきたさくら保育園でも、国が出すデータを最初から信用せずに徹底的に再計測していた。そういう姿をみると、だんだん疑問も湧いてくるわけです。「あれ、なんか違うぞ」って。すごく詳しく計測の仕方を教えてくれるし、データについての解説も細かい。「国にだまされて、安全だと思い込まされているから福島に住んでいる」わけじゃないんですよね。

 ある図書館の司書さんは涙を流しながら話してくれました。彼女の家庭にも小さなお子さんがいる。夫と一度は福島市内から避難を検討していた。でも、自分は図書館の鍵を最後に閉めるのが仕事だと。子供たちがいる中、自分から先に避難するわけにはいかない。放射線について勉強し「いまの線量なら避難はしない」と決断したそうです。

 この決断を不勉強だと誰が責められるのか、と深く考えてしまいました。

 福島に住むと決めた人は無知だから決めたわけじゃない。私たちが考えていたことよりたくさん勉強して、考えていた。当たり前ですよね。そんな当たり前のことすら私の想像力は及んでいなかったのです。

キーパーソンインタビュー:「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん - 毎日新聞キーパーソンインタビュー:「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん - 毎日新聞

見たいものを見るというか、自分以外の大多数はバカに違いない、という上から目線なありがた迷惑さかなぁと。もちろん彼女のような人たちが本気で福島のことを考えていたのは、おそらく、間違いないのでしょう。少なくとも(せいぜい数人の現地友人が被災し安否を確認しただけの)僕なんかよりもずっとその救済を真面目に願っていただろうというのは認めるしかありません。
――ただ、だからといって、その善意が彼女のユニークな個性であると証明するわけでは決してない。その善意はとても素晴らしいモノであります。しかし、だからといって、その善意が社会において真に「特別なもの」を意味しているわけでは絶対になかったのにね。
彼女はその善意の特別さまでをも無邪気に確信してしまった。
つまり、昨今ではよく揶揄として使われるようになった「意識が高い人」そのもの。その知性でなく、自意識こそが高邁だった。


『平均以上効果』あるいは『レイク・ウォビゴン効果』と呼ばれるもの。
私たちは、表面上はともかくとしてその内面までも、その他大勢と見られることに我慢出来ない。私は羊の群れの中でひとりぼっちなのだ。仮に多くの人と同じ行動を採っていても、その中で「自分だけは」ただ他者の真似ではなく真面目に考えて判断し行動している例外なのだと考えている。誰もが周りは自分よりバカなのだと信じている。自分だけは周りの(皆表面的には同じ行動をしているように見える)有象無象とは違うのだと言い聞かせている。
そう、私たちのほとんどは、自己基準に基づく過大な自己評価だけを見るとすべての人が平均以上の能力を持つ、という愉快な架空の町レイク・ウォビゴンの誇り高き住民なのです。



まぁ本邦でも、特に政治問題・投票行動への愉快な批判でも見られる風景ではありますよね。

  • 「アイツらは皆バカだから安倍自民に投票したのだ」
  • 「アイツらは皆バカだから鳩山民主党に投票したのだ」

もしかしたらそれはその通りかもしれません。実際何も考えずに投票した人もゼロでは絶対にないでしょう。そうではない人たちも、いやそうした人たちこそが大多数なのにね。つまり、もう一つの本音として、そうした他の有権者への上から目線が意味しているのは「しかし自分はそうではない」「周りはバカだが、自分だけは解っている」というまぁ呆れるほど肥大化した自意識でもあるんですよね。
自分だけが目の見える存在であるという確信を疑いもしない。
あのバカげた数々の反原発運動――避難しなかった福島の人々の無知さをあげつらうのを筆頭として――が過激化し事実上失敗してしまったのは、結局、客観視できないほど過剰な「意識の高さ」こそが原因だったのではないか、と今から考えると思ったりします。
もちろん彼らがその恐怖に戸惑い、それをどうにかしようと善意から正義に目覚めたのは間違いないでしょう。しかし過激な反原発運動の人たちは、そのプロセスが「自分たちだけに」起きたのだと何故だか確信してしまった。


正義を行うのは、自分たちだけなのだ。私たちだけがきちんと物事を考えて正義のために行動している。それ以外は悪魔か、あるいは盲目な羊でしかない。故に我々が善意によって導かねばならない。

私が大人になって初めて直面した大災害
それは東日本大震災そして福島原発事故で、私は目覚めました
その放射能と被ばくは悲劇で、かならず邪知暴虐な原発は取り除かねばならない
こんな素晴らしい決意に目覚めた私は
きっと特別な存在なのだと感じました


今では、私が、私こそが真実に気付いた覚醒者
(無知な)福島の住民たちにあげるのはもちろん避難勧告
なぜなら彼らは私と違って特別な存在でなく、騙され考えることをやめた哀れな羊たちだからです

かくしてその善意は、必然の帰結として、暴走した。