子育ての社会離れ、社会の子育て離れ

まぁどっちが先かというと水掛け論にはなりそうですけど


保育園の新設に反対…子どもヘイトする日本の大人たち - ライブドアニュース
『ヘイト』ですって。でもまぁ構図としてはそれなりに言われるお話ではありますよね。住宅騒音だの公共交通機関だの公園だの。社会の子育て離れ。ただまぁしばしばネットでネタにされる、「子どもに挨拶をしたら不審者扱い」な現状を見ると、ぶっちゃけ共謀の結果でもあるよなぁとも思いますけど。子育ての社会離れ。
ただ一方だけが離れていったわけでもない、というのが正確なのかなぁと。どちらが先かはともかくとして、しかしそこに一度『壁』の存在を認めてしまった結果が今であり、両者の適切な距離感を未だに掴めないでいる。

でも、社会の成員とはもともと粒ぞろいなわけがない。心身健康でルールに従順な人間(それもどうかと思うが)ばかりじゃなくて、さまざまな弱者がいるのが自然だ。弱者理解や、「政治的正しさ」の理解が浸透して、たとえば障害者を排除しようとしたら、それは悪だと認識される。でも、子どもは結構おおっぴらに排除される。なぜ、それは許されるのだろう?

保育園の新設に反対…子どもヘイトする日本の大人たち - ライブドアニュース

社会(というか自分)に迷惑をかけるような子どもを育てているのは「バカ親」だ、と不快感をあらわにして一方的に断じ、「そんなバカ親には社会的制裁が加えられるのが当然」と疑わずに、エネルギーを投入してまでおおっぴらに批判する。子どもヘイトの本質とは、「俺に/私にとって迷惑だと感じられる子どものバカ親」ヘイト、断罪する精神であり、要は「センシティブな俺の/私の快適を精神的にも物理的にも脅かす、小さな子どもという世にも恐ろしい存在」への耐性の低さ、アレルギーなのである。しかしまぁ、繊細な社会であることよ。

保育園の新設に反対…子どもヘイトする日本の大人たち - ライブドアニュース

何故こうなったかってそりゃ、こうした「少数」意見が通りやすくなったからでしょう。こうした人たちは昔からいて、かつては発言力がなかったものの、しかし今はそうではない。もちろん数が増えたのは間違いないでしょうけど、一方で「多数派」になったわけでは絶対にないはず。つまり、私たちの素晴らしき市民社会はそんな少数意見をも大事にしてくれるようになった、というだけ。繊細な社会だからこそ、そんな少数意見を守ってくれる。彼らはイヤなものを拒否する権利が自分にはあると確信している。
耐性の低い、アレルギーのある彼らは「自分たちの社会」と「彼らの社会」を隔離して欲しいという少数意見を正しく表明し、そんな少数意見が受け入れられてしまった。最初に書いたように、おそらくそれは、両側から。


まぁ仕方ないよね。だって私たちは『ゾーニング』だとか『見たくない権利』とか大好きだもの。そんな少数派の希望を、今回も、正しくかなえただけ。もちろん今回も「された側」の意見なんて概ねどうでもいいと切り捨てて。
やさしい世界。